2013年3月 6日 (水)

分身

今年は正月早々1ヶ月半も入院するという忘れられない年になってしまった。
それも聴神経腫瘍の摘出という脳外科の手術つきである。
腫瘍は良性で、その点では手術さえ成功すれば問題は解決する。

今までお産以外には入院などしたことがなく、
ましてや脳外科の手術など初めてである。
初体験に対する不安がないといったらウソである。
しかし担当医の自信に満ちた確かな診断と
専門的ではあっても分かりやすい説明に信頼が持てたので
手術に踏み切ることができた。
あとは予測不能性にどう対処するかだが
私の場合、これは術後にやってきた。

吐き気である。
これは麻酔に対する反応と脳内環境の激変の両方によるものだが、
当たり前のことだが吐き気があると著しく食欲が減退する。
腫瘍が顔面神経を巻き込んでいたので
それが取り除かれたとはいえ、味覚にも違和感がある。
おかげで点滴につながれることになるが、
これが命綱とはいえ患者のQOLは最悪である。
夜中でも2時間おきにトイレに起きる羽目になり、まとまった睡眠が取れないし
何よりスタンドを引きずって歩くのは不自由なだけでなく
「病人」のダメ押しをされているようで気がめいる。
でもこれで歩行がゆっくりになり、
おかげでめまいの防止にも役立っているのかもしれない
と、考えると栄養補給以外にも役立ったと考えることもできるだろうか。
いずれにしても、何事も時間が解決するものだと分かったことは
病気という経験の最大の利点である。
病人の不安の根底には見通しのなさがあるが
これを解消するのは担当医が示す見通しである。
よく考えれば、それが自分に当てはまるかどうかは実は不確かなのだが
こういうときは一般論でいいのだから不思議だ。

病棟の看護師たちはみんなよく訓練されており
患者のQOLを第一に考えているのがよく分かった。
ここでは看護師は患者の分身である。
患者が望んでいて、でもひとりではできないことを
実現させてくれるのが看護師である。
これがどれほど手間のかかる面倒なことか。
でも看護師の手間を省こうとすると、
ベッドにもセンサーがつけられ、かえって迷惑をかけてしまう。
ふだん病気をしたことのない患者にとって難しいのは
慣れないルールに従って病人らしく振る舞うことなのだ。

入院経験のほとんどない患者として驚いたのは、
男性看護師も多かったことである。
さすがにトイレの中までの付き添いや入浴の担当はなかったが、
それ以外の業務はまったく同じである(当たり前だけど)
しかしどういうわけかICUでは見かけなかった。
検査などで移動用のベッドに移るときなどには
男手の方が安心だが、そういうところにはいない。
何か理由があるのだろうか。

分身と言えば家族もそうである。
夫にとっては私が元気になることが最大の関心事で、
それは自分と私とを同一視しているからだろう。
だから時として私のつらさは二の次になってしまうが、
A型らしい[根拠はありません)律儀さで献身的に世話をしてくれた。
もっとも、これがもっと以前から発揮されていたら、
私は病気にならなかったかも、と思わないでもないが(笑)
何でもやればできるものである。

娘は分身を自称し、ICUでの術後の面会では
意識朦朧の私にサッカーのラトビア戦で
日本が勝利したことを教えてくれた。
iPadでテレビを見る方法を教えてくれたのも娘である。

息子は入院時に同行していたこともあり
結構いろいろ大変だった様子をフェイスブックに書き込んでくれて、
これが私の姉妹や親戚へのアナウンスに役立った。
今回の私の入院で料理の腕も上げたはずである。

家族それぞれが私を表現していると考えるとなかなか楽しい。
自分が違う場所や時代に生きていたらこうなるのか
という可能性を見せてくれるのが家族で、
それを実感させてくれるのが病気という緊急事態なのだ。

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2012年7月 3日 (火)

家族会食

お正月には集まれなかったので、久しぶりの家族会食。
終わってしまったバースデイとこれからやってくるバースデイ祝いを兼ねる。
我が家では6月から7月に誕生日が集中しているのである。
今回は目下絶好調の娘の奢り。
娘の財布が心配だが、ご馳走になるのは初めてでもあり、ちょっと感慨深い。
場所は隅田川沿いにある『シエロイリオ』というカフェレストランで
雨に煙ったスカイツリーも見える。
http://www.cieloyrio.com/

芝居がやりたくて、しかしそれなら自立が必須と
親に厳命されている娘が試行錯誤の末、やっとたどり着いた仕事は
大手の建設会社から独立したアイデアマンの社長が立ち上げた
リノベーションの会社の営業職である。
小さな会社だが、口八丁の娘は営業成績もトップとかで生き生きしている。
演劇学校で学んだ、相手を感じながらコミュンケーションをおこなう
という演技の基本が、営業という仕事に生きていると思うと
まったく何が幸いするか分からないものである。

我が家は姉弟の年齢差が9歳あり、ほぼ一時代違う。
これだけ違うと価値観もハングリーさも相当異なり、
早く親から離れたがって、さっさと独立した娘に比べると
弟の方は要領がいいというか、親離れが悪いというか
まだまだ当分独立しそうにない。
しかし、どういう生き方がいいかということは一概には言えないだろう。
そのときの環境に合わせて生き方を選ぶのがいきものである。
確かなのは、親が余計な口出しさえしなければ
こどもは勝手に前へ進んで行くということだけである。

サングリアと賑やかなおしゃべりで家族を感じた翌日に
『少年は残酷な弓を射る』を観る。
重いテーマを巧みな映像感覚で表現した印象に残る映画である。
この映像処理の仕方が母親(エヴァ)の心の中を表している。

テーマは親子(母と息子)の関係の難しさだが、
観終わってみると、心の不可解さというものが伝わってくる。
こどもが生まれて初めて結ぶ最初の人間関係は、
母親とだから、こどもに何か影が落ちるとすれば、
それは母親と無関係ではありえないということは分かる。
たしかに、エヴァにとってケヴィン(息子)の妊娠は、
キャリアとの板挟みで疎ましいものではあったかもしれないし
そういう気持ちが息子に伝わらないはずはなく、
それが結末の悲劇をもたらしたと考えれば分かりやすいだろうが
それだけではこういう結末にはならないだろう、とも思える。

この映画のリアリティは、観客として観ている分には、
母に対する息子の気持ちは痛いほど伝わってくるのに
当の母親は最後になるまでそれに気づかないらしい、ということだ。
母親は息子以外のなにもかもを失ってみて、初めてそこに気づく(ようだ)が
それは父親も同じで、父親だって息子の心の中は最後まで分からないままだ。
(この父親のようなひとりよがりの理解というのも、また多い)
親として見れば、こどもの心の中は常に未知の領域だし
こどもとして見れば、こんな風に自分は理解されていなかった
ことを思い出させてくれる。
親はこどもを理解していないとは、なかなか自覚できないが、
こどもは、自分が理解されていないことを常に知っている。
そうやって観る側はどちらの側にも感情移入しつつ、
自分の心が閉じているか開いているかは、
実は自分でも分からないのだということに気づいていく。
ティルダ・スウィントンはそのあたりの閉ざされた心を表現するのがうまい。
エヴァは自分でも自分の心の中が見えていなかっただろう
ということがひしひしと伝わってくるのだ。

その彼女が旅行作家だったというところは皮肉と言えば皮肉である。
あのトマティーナ(トマト祭り)は自分の心を開放するものだったはずなのに。

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2011年12月29日 (木)

暮れの行事

昨年に続いて、今年も義兄(夫の姉の夫)の家で餅つきを敢行する。

義兄は数年前に佐原の農家を買って移り住み、
定年後もIT企業勤務と日曜農家の兼業をこなしていたが
手術を機に退職し、農業一本になった。
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久しぶりに訪ねてみたら温室が建っている。
冬にこの中で過ごすのは、至極快適そうである。


農業といっても、身内が恩恵にあずかるだけだが
ジャガイモ、玉ねぎ、かぼちゃ、にんにく、ニンジンなど
収穫物は多彩である。
ビワや柿、キウイなんかもおこぼれにあずかれる。
来年あたりはベリー類も期待できるかもしれない。
義兄は昨年餅つきを企画しながら、
仕事で参加できなかったので今年は人一倍力が入っている。

どういうわけか昨年はもち米の蒸けが悪かった(芯が残った)ので
今年は、まずその改善に手をつけることから始まった。
義兄が振り水の回数や量を変える実験をして
これならOKという方法を確定。
今まで自分流にやってきた義姉は、そんなことで改善するだろうか
とやや不満気である。

義兄には
「昔の人がやってダメだと分かったことだからさあ、それは除外だよ」
と言われたが、蒸すのではなく、炊く方法を試したいと主張、
やってみた結果、この方法では米が柔らかくなりすぎることが分かった。
焚く方法だと水分の調節が難しいのである。
蒸す方法は、蒸け具合を時間で調節することができる。
餅を搗くには、米を蒸すのがよいということに落ち着いたのは
これが理由だと分かる。
昔の人は、ちゃんと不確実性に対応するための方法を
編み出していたのである。
何でも追試験は大事である。

当日は夫の兄弟姉妹が全員集合し、賑やかなことこの上ない。
前日から水浸しておいたもち米と蒸かし鍋も各地から集合し
義姉の台所のガスコンロを2台使って、1度に約4kgを蒸かす。
こういう伝統行事は、一番上の義姉が主導権を握っているが
昔やった行事とあって、みんな楽しそうである。

用意しておいた臼に蒸した米を移し、搗くのは男の役目である。
蒸す時間に比べれば、搗くのはあっという間。
こうして4時前には約15kgを無事搗き終わり、10数枚ののしもちができる。
結局振り水をしてもしなくても米は無事に蒸しあがることが分かり、
結構歯ごたえがある蒸け具合が搗くのに最適であることも分かった。
昨年のあれは何だったのだろうという疑問だけが残る。

コメを蒸している合間に男たちは義兄に促されて
キウイの棚の支柱を組み立てる。

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「このタイミングを合わせるのが大変だったのよ」と義兄。
夫は「事前に言ってくれれば道具を持ってきたのにー」
成果をいただく都合上、協力は必須である。

一番上の義兄は糖尿病で悪化した足の傷がまだ完全に治らず
歩行もままならないが、強力に参加表明し
彼の息子が病院から送迎を担当する。
お正月に夫の実家へ行くと、いつもなんとなく身内じゃないという
疎外感があったものだが、今や舅も姑も他界し、
集まっているのは義姉の家ということもあって、和気藹々である。
一番上の義姉は両親に継いで、最近配偶者も亡くしているが
娘たちと家を建て直し、近所のグループホームに介護士として
勤め始めて、生き生きしている。
1月1日の朝9時に「日本で一番早いニューイヤー・コンサート」
を聞きに行くのだそうである。
70歳をとうに過ぎているが、片道50kmを今回も車で往復した。
親と夫という枷が外れて、今が一番いい時期なんだろう。

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2011年12月23日 (金)

宴のあと

今年のクリスマスは家族全員の都合が合うのが23日昼しかなく
結局全員で家でランチということに。

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ほんとは金)に宅配で届く材料を使って
(といっても鴨のローストとか豚タンのスモークとか
切ればいいだけのものだけど)メニューを構成
するはずだったのだけど、何を頼んだか忘れてしまったのと
宅配の時間がちょうど昼にかかって、
料理が間に合いそうもないので、
急遽以前に買っておいたローストビーフと
夫が食べたいと言い出して買い出しに行った蟹に、
シーフードスパゲティというごくふつうのランチになってしまった。

しかし番狂わせというのはあるもので、
今日食べるために注文したわけじゃなかった
殻つきのマカデミアナッツで、宴は思わぬ盛り上がりを見せた。

殻つきのアーモンドというのもなかなか美味だけど
殻つきのマカデミアナッツというのはハワイでも食べたことはない。
外見は、まさにハワイ土産のマカデミアチョコレートである。

どうやって殻を割るか、みんなで知恵をしぼる。
以前はくるみ割りがあったのだが、クルミの殻を割る機会はそうないまま、
そのうちに紛失してしまったので、まずペンチを探すが
こういうときに限って見つからない。

料理用のハサミには、何かを割るのに向いていそうな部分があるが歯が立たず。
ドライバーでつつく人もいるが、これも全くダメ。
修理好きの夫はウォータープライヤーを持ち出してきたが、
これだと粉々になりすぎる。
殻が大きく割れて、大きな実が取り出せないと味わえない。

「こんなに固いのに、ちゃんと芽が出てくるんだから不思議だよね」とは
理屈が先行しがちな息子。
見ると、ちゃんと小さな穴が開いている。
芽はたぶんここから出てくるのだろう。
トンビの才能がある娘は、もっぱら成果が上がるのを待つのみである。

サルはこういうときどうするだろうか、と考えてひらめいたのは金槌。
ベランダに転がっていた石を台にして、その上にマカデミアナッツを置き
金槌でたたくと、これがバッチリだった。
上手に力加減をすると、指で割れるくらいのひび割れで実が取れる。
苦労して割った中身の味は格別である。
結局大盛り上がりの中、この方法で全部食べつくしてしまった。

写真は
「2011年のクリスマスは殻つきマカデミアナッツで盛り上がりました」
という記録です。

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2011年11月12日 (土)

『家族の庭』

ふと思い立ってテアトル銀座へ『家族の庭』を観に行くことにする。
ついでに伊東屋に頼んでおいたカレンダーも取りに行くことに。
チケットはネット予約ができるようなので
PCでやってみたが、どうやっても座席が取れない。
うーむ、ブラウザのせいなのか?
しかたがないので「携帯からの予約」で取る。
PCだと座席指定ができるが、携帯予約ではブロックしか選べない。
テアトル銀座はそんなに大きな映画館ではなかったなあと思いつつ
あんまり前の方も、と思いながら後ろのブロックを選ぶ。
どの程度後ろかがちょっと不安だったが
実際には2階席くらいの高さで、画面がちょうど目の高さだった。
PCで席がとれなかったのはなぜ?と受付で聞いてみたら
ネット予約は25席だけ確保してあり、白くなっているのが空席なのだと。
ほかの映画館では、ふつうは埋まっている席が白くなっているが
映画館によって違うみたいだ。

映画は1年を四季に分けて描いている。
夫婦ともに仕事を持ち、安定した生活を築いているトムとジェリー。
この名前に何か意味があるのだろうか、とちょっと考える。
家庭菜園に精を出し仲睦まじく、幸せそうである。
そこに絡んでくる人間たちは、それぞれ悩みを抱えている。
離婚後、孤独から抜け出せないメアリーは
なんとか気を紛らわそうとやたらに喋りまくり、
車を買ったりもするが、どうも詰めが甘い。
人間、気持ちが安定していないときは失敗が多い
というのはよくあることだが、こういうところから
抜け出すのはなかなか難しいだろうなあと思わされる。
ケンも孤独を抱え、ひたすら食べること、飲むことに
専念しているような中年男だ。
メアリーに言い寄ったりするが、あっけなくはねつけられる。
孤独からは抜け出したいが、相手は誰でもいいというわけではないのだ。
メアリーはトムとジェリーの息子に色目を使ったりして
彼がガールフレンドを連れてくると露骨に嫉妬心を見せる。
この辺は実にありそうなことだと納得してしまうが、
およそ実現可能性がなさそうなことを夢見てしまうところは、
中年期の混乱をよく表しているといったらいいか。

「冬」にはトムの兄の連れ合いの死があり、
後に残された夫の孤独が描かれる。
こういう夫で妻は幸せだったのだろうか、という感じがしなくもない。
妻の死に打ちのめされているとはいえ、
明るくてまめなトムとは対照的な兄である。
映画は人生なかなかうまくいかないものだという苦さに満ちている。
しかし一番の苦さは、メアリーを通して、
人は自分の問題は自分で解決するしかない、
ということがビンビンと伝わってくるところだろう。
メアリーは、自分はひょっとしたらトムとジェリーの疑似家族だと
感じていたのかもしれないが、それはジェリーにはっきり拒絶される。
このあたりは心理カウンセラーであるジェリーならではだろうが
そういうものだよね、と思うか、家族ってもうちょっと拡大解釈が
できるものなんじゃ?と思うかは人によって違うかもしれない。
トムとジェリーには、もちろんメアリーを疎外している意識はないだろうが
幸せな生活とは、どこかで壁を作らないと保てないものだ
と言っているようでもある。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
この辺は私にもまだ結論が出せていない。
甘いのかもしれない。

映画館を出て、雨の中を歩いて伊東屋へ。
取り置いてもらったはずのカレンダーが用意できていない
というあたりに手際の悪さを感じるが、
「プレゼント用ですか」と確認してくれて、
それ用に念入りに包装をしてもらい、不手際は帳消しである。
隣のカフェの対応もほっくり暖かく、
映画の苦さが溶けていくのが感じられる。

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2011年5月 9日 (月)

母の日に

母の日の前日の土曜日。

私(特に期待するわけでもなく)「明日は母の日だあ」
息子「今年はなんにもありませんから」

もっともこの数年、ずっと何もなかったのだから
今年に限って別に珍しいわけじゃないのである。

そして当日。

レッスンの後、カフェで岡田斗司夫著「評価経済社会」を読み終え
デパートで好物のメカジキの刺身を見つけたので夕食に、
ついでに物産展をうろうろして「堂島ロール」を買う。
ロールケーキが騒がれている風潮は知っていたものの、
特別好物でもないので、今まで手を出したことはなかった。
でも、今日はお母さんの日だしね、
たまには我が家の定番のトップスのチョコレートケーキ
じゃなくてもいいだろうと、新顔に手を出す。
帰宅したら出かけたはずの息子はすでに家に帰っており、
まもなく夫も帰ってきて
「ケーキ買おうかと思ったんだけどさあ」とか言っている。
「いいよ、自分で買ってきたから」と話していたら
息子曰く

「おかあさんにヘッドセットを買ってきました。

最近左耳の聴力が少し落ちているみたいなので
いつもスピーカーフォンにして話をしているのを見て
前から「ヘッドセット使えば?」と言っていたのだ。
そんな大枚はたいちゃって、小遣いが減っちゃうだろ?
という言葉はぐっと飲み込む。

さて、岡田斗司夫さんの「評価経済社会」は
貨幣経済社会の後には評価経済社会が来る、という主張を、
歴史の視点なども絡めて読みやすくまとめている。
「食い扶持は他人からの評価」と聞くと、
なんだか人気商売の推奨みたいで、いかがわしい感じもするが
古代、中世、近代という時代の変化がもたらした
パラダイム(価値観)変化を、農業革命や産業革命などの
生活変化を根拠に解説しているのはなかなか説得力がある。

「モノ不足、時間余り」から「モノ余り、時間不足」の時代を経て
現代は「モノ不足、情報余り」というのが岡田さんの解釈である。
ここでいう現代のモノとは「資源・土地・環境に対する有限感」を指しており、
だから現代の若者はいかに(モノ)資源を使わないか、
いかにモノを作らないか(環境を損なわないか)と考えるので、
これまでの時代に当たり前だった、あくせく働いて金を稼ぐ
というような生活の仕方を嫌うのである。

現代人が「気分」で動いており、
一人十色と言われた、多重人格にも見えるような多面的なありようは
すでに20年以上前から兆しとして捉えられていたが、
情報余り、つまり情報の解釈の多さという補助線を引いて考えると
なんでアイデンティティという言葉が使えなくなってきたのか
ということも含めて腑に落ちる。
で、そこから貨幣経済社会から他者から評価される評価経済社会への移行
という結論が導かれるのだけど、その実践編としての
岡田さんの「オタキングex」は、ユニークだとは思うものの、
なんだか檀家に支えられたお寺さんか、
信者からの献金で成り立っている教会のように見えなくもなく
正直、これのどこが新しいんだ?という感じもする。

まあ、パラダイムが激変しようとしていることだけは確かなのだけど。

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