2011年6月 8日 (水)

「The door in the wall」

FC東京はJ2に降格したが、応援団はJ1から継続している。
今回は場所が駒沢競技場ということもあり、近くで開業している
仲間のドクターが二次会をセッティングしてくれて、
いつものイレブンで観戦ということになった。

爽やかな風が吹く応援日和だったが、試合は先制したにもかかわらず
後半愛媛FCに追いつかれ、結局引き分けで終了した。
選手が若返ったせいか、以前より積極性は増したように見えるが
愛媛FCのようながむしゃらさが感じられない。
これを都会っ子のせいにするのは当たらないだろう。
だって選手の出身が東京とは限らないわけだし。

試合後、うなだれてサポーターにあいさつ回りしている選手に
「それでいいと思ってんのか」という怒号が浴びせられるのは
見ていてあまり気持ちのいいものではない。
孫のような世代の選手たちが、のびのびと試合ができるようになるためには、
どういう鼓舞の仕方がいいのか、同年代からの叱咤激励というのも
ありだろうとは思うが、なんかいい方法はないものか。

二次会は「TSUNAMI」というハワイ料理のお店。
駒沢という場所柄か、なかなかおしゃれである。
30年前の新婚旅行で食べたような魚料理があるかと思ったが
今回はなく、でもデザートのフルーツを盛ったパイナップルは
酔っ払いついでにみんなで破壊しつくして、しゃぶってしまった。
ただ11人ともなると、必然的に話ができる人は限られてくるし
話がどうしても懐古的になるのも、年代的にしかたがないのかもしれない。
サッカーの話から足のしびれの話、写楽から映画へと、
話題はひとところに留まらず、あちこちに飛び、行方が分からない。

ひとりが、高校の英語の授業で読んだH・G・ウエルズの
「The door in the wall」が印象的だったという話になったので
どんな話なのかと聞くと、壁にドアがあって、
それを開けるとどうのこうの、という内容だという。
へえー、『アジャストメント』という映画もそういう映画だったよ、
と口をはさむが、ほとんど気にも留められず話題はうつる。
この日は風邪の引き始めだったこともあって、
やっと家に帰りついたあとは、頭痛に悩まされながら眠りについた。
翌日は声も枯れて、これはもうほんものの風邪である。

気力がわかないので、ぐうたらついでにふと思い立って
「The door in the wall」の邦題を調べてみた。
すでにいろいろな訳が出ており、題名も「塀についたドア」
(なんとも野暮ったい題名だが)とか「くぐり戸」とかいろいろである。
ウエルズの「タイム・マシン」という短編集に収載されていると
分かったので、図書館で借りて読んでみることにした。
ところがこれが『アジャストメント』にビンゴ!だったのである。
筋立ては、ディックの「調整班」よりむしろこっちの方が近い。
ドアの向こう側の描写も、本の中に人の動きが見える
というアイデアも、ちゃんとこの本の中に出てくる。
映画『アジャストメント』は、ウエルズとディックを
ミックスしたものだったのである。
「アジャストメント」の原作で解説者が
「あまりに原作と違うので、映画を観た人は呆然とするだろう」
と書いているのは、ウエルズまで手が回らなかったということか。

ウエルズのドアが意味するところは、
後年ディックもエッセイで書いているように
現実の線形時間に直交する時間である。
ただウエルズの作品では、最終的に主人公はドアの中に入って死んだと
暗示されており、直交する時間を経験することは手放しで評価されていない。
これが書かれたのは1906年で、ディックの「調整班」は1954年、
ディックのエッセイ「人間とアンドロイドと機械」は
1976年の作であることを考えると、
ウエルズの時代には、現実の時間から一瞬でも降りること、
つまり、現実とは別の自分の存在を認めるというのは
思いもよらないことだったのだろう。
にもかかわらずウエルズは、そのことの意味をすでに指摘しており
そして2011年の現代、『アジャストメント』の主人公は
直交する時間に助けられてハッピーエンドを手に入れる。

作家の創造性とはかくも偉大なものなのである。

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2011年5月31日 (火)

SFというもうひとりの自分

『アジャストメント』を観ようと思ったのは
もちろんマット・デイモンが主演だからだけど、
原案がフィリップ・K・ディックだと知ったからでもある。

もともとSFというジャンルにはたいして興味がなく、彼の作品も
たまたま『ブレード・ランナー』のDVDを観たのがきっかけで
原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」をやっと最近読み始めたのだ。
これだって周囲の熱烈なディックファンに引きずられたからである。
もっとも子どもの頃は「透明人間」や「海底二万哩」などは大好きだった。
でもこれが、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンより
面白かったかというと、何ともいえない。

『アジャストメント』は、予告編を観る限り政治がテーマの映画で、
現実とフィクションが交錯する、どちらかというとダークな映画と
予想していたが、映画館には思いのほかカップルーそれも熟年の
が多かったのが意外だった。これはどういうこと?と考えてながら観ているうちに
期待は見事に裏切られていき、途中から「あらあ、これっておとぎ話だったのね」
と分かって、あとはただひたすら、マット・デイモンのなんとも純朴な、
およそ狡猾さには欠ける顔だちとストーリーを楽しむことになった。

うーむ、ハリウッドのマーケティングがこのような映画を作らせたのだろうか。
マット・デイモンが、こんなシンプルな映画に出るだろうか、
ディックがこんな苦みのない原作を書くだろうかと
あらかじめ買っておいた新刊「アジャストメント」を読んでみることにした。
この新しく出た短編集には「人間とアンドロイドと機械」という
ディックのエッセイも収載されていて、『ブレード・ランナー』を
理解する助けにもなりそうに思えた。

映画は大筋ではおおむね原作をなぞっているが、
設定はまったく異なっていて、原作はすこぶる地味である。
この原作をこういう風にを映画的に面白いものに作り替えたのは評価できる。
しかしなにより収穫だったのは、「アジャストメント(調整)」という言葉は
私が考えていたような、なんとなく現代社会に潜む陰謀といった
うさんくささを表すものではなかったということである。

私たちが現実だと思っていることは、ヴェールを通して見たものであって、
それはイメージに過ぎないというのがディックの言いたいことである。
彼はそれを線形時間と表現していて
それに直交する時間があるのだということをエッセイに書いている。
今ではなかなかお目にかかれなくなったLPレコードに
糸を通してみると、その糸が線形時間、レコードの溝にあたるものが
直交する時間、というわけだ。
いわゆる現実の時間には、そうしたさまざまな直交する時間が
含まれているということは、私たちが何かに夢中になって
我を忘れたとき、まったく違った時間感覚を経験することから分かる。
そのとき私たちは、直交する時間に入り込んでいるのだ。
それが『アジャストメント』に出てくるどこでもドアである。
映画に出てくるエージェントを、いわゆる現実(線形時間)に引き戻そうとする力
と考えると、この映画はただのラブストーリーではなく
ディック(原作)に忠実に、直交する時間の存在を表現しようとした
実に興味深い映画だといえる。

こういう風にSFを、ただ外の世界を荒唐無稽に描いたものではなく
(全部がそうなのか、ディックのがそうなのかは分からないけど)
むしろ人間の内面を描こうとしたものだと捉えると、
私にとってSFは俄然近しいものになってくる。

たとえばマザコンのバレリーナが、そこから脱するプロセスを描いた
『ブラックスワン』での主人公の精神の混乱過程は、
いささか現実離れしていて、映画的にもやりすぎじゃないか
って感じがしたものだが、これもSFだと思えば納得しやすい。
彼女が最後につぶやく「パーフェクト」という言葉は、
現実の自分に押しつぶされそうになっていた、
もうひとりの自分(ユング的に言えば真の自己)、
つまり線形時間に直交する時間を経験できたからこそ言えたのである。
タイムスリップとは、機械の中に入ってどこかへ飛び出していくことではなく
自分の中にいる、もうひとりの自分に出会うということなのだろう。

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2011年3月 7日 (月)

レプリカントという発想

がん患者へのインタビューの質を評価する仕事の都合上
後からDVDを観るということの視聴に与える影響も考えておきたいと思い、
映画について書かれている書物をあさっているうちに
『ブレードランナー』にいきつく。
ハリソン・フォードはともかく、ショーン・ヤングが出ていると分かって
アマゾンでオリジナル劇場版、インターナショナル劇場版、
ディレクターズカット版の3種類が入っているDVDを購入。
1982年制作(ディレクターズカット版は1992年制作)と知って、
ちょっとショックを受ける。
リドリー・スコットは、最近ではテレビドラマ『グッド・ワイフ』の
制作総指揮もしているが、これも見ごたえのある作りで腕の確かさがわかる。

なかなか見ごたえのある映画だったので、
関連して加藤幹郎さんの「『ブレードランナー』論序説」も読むことにする。
大変緻密な論考で、「あそこで猫の声が聞こえない凡庸な視聴者もいる」
とか言われると、
「そりゃ画面にくぎ付けになっているときは耳がお留守になるからね。無理だよ」
と反発心も湧くが、書かれていることにはおおむね納得。
レプリカントと人間とどちらが人間らしいか、
結局、人間とレプリカントには違いがない、ということは
今(現代)になってみるとごく当たり前に感受できるが
公開当時はどのように受け取られたのだろうという興味がわく。
この映画の主役はハリソン・フォードだと受け取った人もいるらしいが
30年前だとしたら無理もないかもしれない。
デッカードがレプリカントかそうでないかという論争もあるみたいだが、
それもさほど重要じゃないだろう。
ただ、人間にしちゃデッカードは強すぎるから私もレプリカントだとは思うが。

加藤氏が書いているようにこの映画のテーマは
「人間とは何か」ということだと思うが、
私は人間がどんな特性を持っているか、ということより
レプリカントという疑似人間を発想した、というところにそれが見えて面白いと思った。
ここにはおそらく神を発想したのと同じ心理が働いているのではないだろうか。
つまり自分の無意識を外在化したのではないかと思うのだ。
だとしたら、どっちが人間らしいかという議論は無意味だともいえる。
これが日本人だと、岩とか樹とか、あるいは自動車とかなんていうのもあり得るが
外形を自分たちに完ぺきに似せて、しかしすっかり自分と同じではない(良くも悪くも)
というあたりは、いかにも西洋人らしい発想じゃないだろうか。
最後にロイがデッカードを救う場面は、死にゆくレプリカントが他者を救う
という崇高な場面で感動ものだが、考えようによっては、自分が自分の都合に合わせて
生み出したものに復讐されつつ最終的には救われるというわけで、
なんとなく虫がいいなあという感じもする。
そうじゃないと人間に絶望しなきゃならないわけで、それは避けたいだろう。

フィルム・ノワールの定番とかで
未来都市だというのに、映画は全体に暗く、ジメジメしていて猥雑な都市風景が続く。
まあそれも解釈のひとつだけど、この風景は好みじゃないなあと思っていたら
原作(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)は全然違うというレビューが
アマゾンに載っていたので原作も読んでみることにする。
原作をここまで改変した、という点でリドリー・スコットを
再評価することになるのか、そこがちょっと楽しみではある。

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