2011年11月15日 (火)

自堕落な人生

FC東京の応援団は、別名「自堕落倶楽部」。
第二の人生に突入したからには、できるだけ自堕落に人生を謳歌しよう
という気持ちを込めて命名された。
もっとも「自堕落」とわざわざ言わないといけないところに
なかなか自堕落になれない世代の真面目な悲哀が表れているともいえるが。

昨日はシネフィル・イマジカで『ジョー・ブラックをよろしく』を観る。
断片的には観たことはあるものの、ちゃんと最初から観るのは初めてである。
ブラピの映画は何本か観ているが、若いころの映画はほとんど観たことがなく
なので熱狂的なファンというわけでもない。
でも、最近の成熟したブラピはなかなか好ましいので
この感じがどこから来ているのかを知りたくて、
チャンスがあると遡って観ているのだ。
「若くてハンサム」から「円熟した」へとうまく年を経ている俳優の双璧は
ショーン・コネリーとブラピかもしれない。

この映画では、ほんとに美しいブラピ(ジョー)が観られる。
それが「死神」というところがこの映画のミソだろう。
誰もが恋をしてしまうほど美しいのが、死神の死神たるゆえんかもしれない。
うぶで軌道を外れた妙なおかしさと、何をするか分からない怖さとが
混在した複雑な役柄はブラピならでは、か。
選んだのがアンソニー・ホプキンス(ビル)だったのは、
死神がかれの娘に恋をしたからなのか、
それとも、偶然選んだ対象の娘(スーザン)に恋をしたので
かれの目の前に現れることにしたのか、そこははっきりしないが、
ともかく死神はその日が来るまで、ビルにぴったりと同行する。
それで事態がどんどん変わっていく。
会社同士の合併の話はなくなり、誕生日パーティの趣向にもビルは上の空である。
人間は、死が視野に入ってくると思考のしかたが変わる。
ジョブスがスタンフォード大学での講演で言っていたのもそういうことである。

ジョーはスーザンに恋をして離れがたくなり、
結局ビルを連れて去ったあと、スーザンのところに戻ってくる。
クレア・フォーラニ(スーザン)は、
死神(ブラピ)が恋するだけのことはある美しさである。
これを、死んだはずの青年がよみがえったとする解釈もあるらしいが
それだと話はあまりに非現実的のような気もする。
むしろ死神だからこそ戻ってきた、と考えるのが自然じゃないだろうか。
人は誰でも死神に恋をされており、
その恋は、死という形で必ず成就するということなのではないか。
ファンタスティックな美しい映画だが、なかなか内容の濃い映画でもある。
つくづく、ちゃんと通して観ることは大事だと思う。

通して観ると言えば
『インセプション』も先日やっと通して観て良さが分かった。
ちらちらと断片だけしか観ていなかったときには
荒唐無稽さだけがクローズアップされ、
そういうのをCGを見せられてもなあ、という思いが強かったが、
無意識を共有する話だと分かると、CGなしでは
この映画が成り立たなかったということがよく分かる。
無意識は常に脈絡がなく荒唐無稽だから
これを徹底的に描こうと思ったら、CGじゃなければ不可能だろう。
それを階層化して説明しようとするところは
いかにも西洋的だが、そうじゃないと
世界的には分かりにくいかもしれない。
日本人なら、無意識の一番底へ降りてしまったとしても
それはそれで充分生きるに値する、と考えるはずである。

この2本は、どちらもCSとBSで観た。
最近はこんな調子だから、もう地上波を見ることはほとんどない。
WOWOWは3チャンネルになり、
そのうちのひとつは映画ばかりやっているし
CSではしょっちゅう昔の映画やテレビドラマをやってくれる。

昔見逃した『グレイズ・アナトミー』だって、DVDをレンタルしなくても
ちゃんとシーズン1から観ることができるのだ!
おかげで、メレディスとデレクがどんな紆余曲折を辿ったか、
クリスティーナがどんな経験をしたのか、ちゃんと過去を知ることができる。
クリスティーナがメレディスのこどもの後見人になることの重さは、
こういう経過を知らないとなかなか分からないだろう。
もちろん、カレフやイジー、ジョージやベイリーのエピソードも、だ。

人生の価値は、過去の積み重ねが分からないと理解できないが
そのためには自堕落が必須条件なのかもしれず、
だから年を取ることが必要なのかもしれない。

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2011年2月20日 (日)

『ヒアアフター』

楽しみにしていたイーストウッド監督、マット・デイモン主演の
『ヒアアフター』をロードショー初日の朝一番の回で見る。
今回はいつになく宣伝が充実していて、公開前日の金曜日には
タイミングよく新聞の映画評でも取り上げられていた。
ハッピーエンドが予感されたからでもないだろうが、いい入りである。
チケット販売開始日に予約したので、劇場のど真ん中の席が取れていたが
両サイドもきっちり埋まっていた。
観客の関心の高さが分かる。

ヒアアフターとは来世の意味である。
旅先で洪水に巻き込まれて臨死体験をする女性ジャーナリスト、マリーと
双子の兄を事故で失った弟マーカス、霊能力を持つジョージ(マット・デイモン)
の3人の話が同時進行の形で進む。
ジョージは霊能力をギフトではなく呪いだと思っている。
死者の世界を忌み嫌っているわけではないのだろうが
死者の世界が見えることで不幸に触れてしまうのが耐えられない。
それを避けようとすると孤独にならざるを得ないのだ。

マリーは生と死の境界を経験して内的な変化を起こす。
しかし周りにそれを理解してくれる人はいない。
恋人だった同僚にしても、だ。
マーカスは、2人でひとりだった双子の兄を忘れられず
なんとかもう一度会いたいと思っている。
この辺のこどもの感覚は大人よりはるかに柔軟で、
彼にとっては生も死も境がない。

3人の孤独は厳密に見ると少しずつ違う感じはする。
マリーのは自分の変化を理解されない孤独だが
マーカスのは自分の半分が死んでしまうことによる喪失感だ。
ジョージのは他者(の不幸)を避けようとすることによる孤独だろう。
これらの孤独が常にノーマルライフ(現実の生活)に縄のように
編みこまれながら語られていくところがイーストウッドの巧みなところである。
そしてジョージは、マリーとマーカスという死に癒される者に
出会うことができて、ようやく孤独から抜け出す。

ジョージを通じてマーカスが兄からのメッセージを聴くクライマックスでの
言葉が印象に残る。
「こっちの世界はいいよ。何にでもなれるんだ」
そう、現実の世界は何かにつけて変化を嫌い人を決めつけてしまう。
もっと自在に生きてもいいいのに、それを許さないのが現実の生活だ。
「ぼくらはいつも一緒」という言葉は生と死は表裏一体ということでもある。
地下鉄の爆破事故は、兄がマーカスを、つまり死者が生きている者を
守ってくれるエピソードとして描かれるが、生きるということは
常に死と隣り合わせだと解釈することもできるだろう。

死者の世界を抱えた者同士が出会い、
平安が訪れる結末はほんのりと暖かい。
スピルバーグがイーストウッドに監督を指名したのは慧眼だった。

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2010年8月 7日 (土)

絆の問題なんだろうか

なんだか朝からむうっと暑い日が続くので、いっこうにしゃきっとしない。
毎日しゃきっと過ごせるかどうかは、ほとんど習慣の力に拠っているから
夏の間は、まあだらだらと言い訳がましく過ごすことにする。
昔、大学の先生が、江戸っ子らしいベランメエ調でインド人を評して曰く
「ああいう暑い中で毎日を過ごしているから、あいつら妙に哲学的なんだ」と
語っていたが、暑くて身体を動かせないと、
頭の中をアイドリングさせるしかないのだろう。
日本もだんだん亜熱帯化しているから、
「勤勉を旨」というのもそのうち変わるかもしれない。
暑い地域にはそれなりの生き方というのがあるだろう。

ところで、100歳以上の高齢者の行方不明が続出している。
私は今回の事件で、100歳以上が4万人もいるということを初めて知ったが
そんなに多いなんて、誰も今まで不思議に思わなかったのだろうか。
私の感覚では、100歳以上は「稀」、110歳とか113歳なんていうのは、
「ごく稀」の代名詞という感じで、そんな年齢が実在しているなんて
ほとんど信じられないから、その多くが行方不明と聞いても
別に不思議な感じはない。
行政の手が回らなくて生死の確認ができていなかった、らしいが、
100歳を越えているようなめずらしい人には、まずは会いに行く
というのが普通の感覚なんじゃないかって気はするから
行政マンにとってはめずらしいことではなかったのだろう。
まあ、普通の感覚じゃ仕事なんてやってられない
ってことかもしれないので、そうだとしたらお気の毒というしかないが。

誰にも知られないで死んでいく、といっても死ぬ時はどうせひとり
だと思うから、それ自体は別にどおってことはない。
死んでもなかなか見つからなければ、そのうち土に還るだけである。
それのどこが問題なんだろう。
絆があろうがなかろうが、人はいずれ死ぬってだけのことだろう。
100%の確率で起こることに対して、あんまりドラマチックな
味付けはしない方がいいような気がする。

BSフジの『プライム・ニュース』で、遺品整理の会社を運営している人が
「捨てられるのは、捨てる側だけじゃなくて捨てられる側にも問題がある」
というようなことを言っていたが、そういうものだろう。
やっかいなことばかりやっていて、うんざりっていう親はいるものだし
(もちろんこどもにもそういうのはいる)
親の心なんてこどもには分からないし(逆もまた真だけど)
放浪の旅に出て野垂れ死ぬっていう方が
「これが家族だ!」という堅苦しい家族像を押しつけられて死ぬより
よほど自由で快適だとは思う。
どうやって生きてもいいのなら、どう死んでもいいはずである。

ちなみに、このBSフジの『プライム・ニュース』は
数あるニュース番組の中では、なかなかいいレベルである。
地上波のフジテレビは、妙に古い保守臭さかおふざけ路線の
どちらかに二極化していて、最近はドラマにも見るべきものがないが、
BSのこれは、キャスターの突っ込みもなかなか的を得ていて
8時から10時という長丁場を飽きさせない。
地上波とBSでは別会社かと思うほどである(そうなのかもしれないが)。

で、死ぬのはどこでどうやって死んでいただいてもいいのだけれど
問題は、それによって不公正な分配が起きないような手立てを考えることだろう。
「即身成仏」を見守るのはいいが、仏さまのお金を横取りしちゃいけないってことだ。
でも、そもそも社保庁というところは、もともと他人の金を横取りすることに
長けていたところだから、そういうところに策を講じろ、
という方が無理なのかもしれないけど。

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2010年7月14日 (水)

人間という病

ワールドカップが終わった。
日本がベスト16位まで進出したことも嬉しいが
「無敵艦隊」と言われながら、ずっと優勝できなかったスペインが
やっとのことで勝利を勝ち取った、というのがことのほか嬉しい。
スペインのサッカーを見ていると、パスとは相手ではなく
スペースに出すものだと思えてくる。
スペースに出せば、そこへ滑り込んでくるチームメイトがいる
という風に見える。
これができるのは、彼らが常日頃から同じクラブチームで
試合をしており、イキが合っているということが大きいのだろう。
(とオシムも言っていた)
それを支えているのがパスの技術だ。
スペインのサッカーが美しいと言われるのは、
そういうイキの合い方の心地よさとともに、
パスの技術の美しさもあるに違いない。
日本はスペインサッカーを目指しているのかもしれないが、
チームワーク以前のパス技術をもっと上げなければ無理、だとも思う。
これからしばらくは、日本国内ではチームワーク礼賛のオンパレード
になるだろうが(そうやって、個を埋没させるのは日本人の得意技である)
問題はそれ以前にあるんだからね、勘違いしないでね。

1ヶ月の睡眠不足の蓄積を感じながらも
ギンレイに『ハート・ロッカー』がかかったので行くことにする。
『ハート・ロッカー』はアカデミー賞を取ったことで、
早くから観た感想が耳に入ってきたが、あんまり高いものではなかった。
なので、失望するかもしれないけど、もう1本の
『月に囚われた男』が面白そうだから、
ダメだとしても相殺されるだろうと思いながら行く。

あいにく『月に・・・』は最初の15分間に間に合わなかったせいで
肝心の部分を見逃したかもしれないのだが、なかなか面白かった。
タイトルの「囚われた」ということろがミソだと、観終わって分かる。
主人公が精神に異状をきたしてしまったのではないか
(そもそも3年も一人で月に赴任するなんて、できっこない)
と思わせつつ、落としどころはもっと現実的である。
脚本、監督のダンカン・ジョーンズは、あのデビッド・ボウイの
息子だそうだが、この映画で新人監督賞を手にしている。

『ハート・ロッカー』は今年度のアカデミー作品賞受賞作である。
冒頭「戦争は麻薬である」というメッセージが流れる。
これが、この映画のすべてだろう。
死と隣り合わせの極限状態を生き延びるような
過酷な経験を積んでいくと、シリアルだけでも目がくらむような
多くの種類が売られている日常生活の方が
なんだか異常、と思えてくるのは分からなくもない。
「大事なものは、ひとつだけなんだ」と幼い息子につぶやく主人公は、
見方を変えれば「戦争に囚われた男」でもある。

この映画を好戦的と評する向きもあるみたいだが、
私はむしろ、日常に戻ってこれない主人公というものに
向けた監督のまなざしが、共感を獲得したのだろうと思う。
それは反戦か好戦かといえば、もちろん前者なのだが、
それだけではなく、死と隣り合わせであることによってしか
生を感じることのできない人間というものの、ある種の病、
あるいは、どんな環境にも馴染んでしまう可能性がある
人間という病んだ存在、ということなのではないだろうか。

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