2012年5月15日 (火)

『忘れられた夢の記憶』

「抽象から形態へ」というテーマの展覧会が面白かったので
同じ川村美術館が開催する美術講座を聴講してみることにする。
第1回から3回までは本江邦夫氏の講義である。
テーマは「芸術とただのモノはどこが違うか」

彼の著書「現代美術入門」は-中・高校生のための-、という
副題がついているが、どうしてどうして、内容は高度である。
絵画の究極が○△□だというのは、絵を描いていると分かることだが
具象が分かりやすいと思うのは、そこにすでに名前がついていて
見知っているものが描かれているからである。
それに比べると抽象といわれるものは、
通常はおよそ見たことがないものばかりである。
私たちは、見ることは分かることだと思い込んでいるから
見たこともないものを見せられると、分からないと思ってしまう。
抽象絵画を見ると、見ることイコール分かることではない、
ということがつくづく分かるだろう、という下りは説得力満載である。
そして分からないことが、そんなに腹立たしいことではないことにも気づく。
だって、そもそも世の中なんて分からないことだらけだしー。

絵画はラスコーの壁画にも描かれているように、
ものの形をそのまま写すことから始まった。
人間が外界に対して強く支配的である時、人間はゆとりを持って
外界に感情移入し、目に見える世界をそのまま写し取ろうとする
写実主義になるが、外界が人間に対して支配的であると、人間は
この恐れ(空間恐怖)から逃れようとして反写実的な抽象表現に
駆り立てられる、とヴォリンガーという人は言っているらしい。
たしかに内面を表現しようとすれば、
具体的なモノでは描ききれないだろう。
写真技術がなかった頃は、外界をそっくりそのまま描くことが
絵画の役割だったが、同じものを見ても、人によって
見え方はさまざまであることが分かるようになり、
そこから次第にモノの本質、つまり私たち自身を描くようになっっていった。
デュシャンもウォーホールも、結局のところ
私たちの置かれた時代を表現しているといえる。

ラスコ―よりさらに古い時代のショーヴェ洞窟の壁画も映画になっていて
「世界最古の洞窟壁画3D.忘れられた夢の記憶」(シアターN渋谷)で
古代の芸術家たち(たぶんごく普通の人たちに違いなかったのだろうが)の
たしかな腕前を堪能することができる。
現代の専門家によるさまざまな解釈はともかくとして、
古代人たちが、日常に遭遇する動物たちを嬉々として、
あるいは祈りを込めて描きつづけたことだけは分かる。
古代の人たちは外界に対して支配的であり、
ゆとりを持って写し取ろうとしたということだろうか。
素朴だが幼児とは明らかに異なる洗練された技量を持っており
具象(外界をそのまま写した)というより
抽象(モノの本質)に近いような感じがする。

この映画の監督であるヴェルナー・ヘルツォークのすごいところは、
映画の最後にショーヴェの近くに建てられている原発を持ってきたところだろう。
そこでは原発の排熱を利用して温室を作り、ワニを飼っている。
そして何代も交配を続けるうちに、突然変異による
アルビノ種の白ワニが生まれている。
岸田秀さんは、白人はアルビノなんじゃないかという仮説を
述べていたが、はたしてヘルツォークはそれを意識していたのかどうか。
原発と突然変異を並べて見せたことだけはたしかだと思うが。

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2011年9月 9日 (金)

視能訓練士

本を読むのに疲れを感じて集中力が続かなくなってきたので
メガネをチェックしてもらおうと駅前のデパートのTメガネへ。
目のせいで、年のせいとは考えない所に中年世代の
事実誤認の傾向も感じるが、新しいメガネ店を開拓しておきたい
という思惑もある。
メガネをかけるのは老眼になってからだったこともあり、
これまでの2回は銀座のM眼鏡店で作っていたのだけど、
年を取ってきたら近場の方が何かと便利かも、と考えたのだ。

視能訓練士らしい若い女性が、コンピュータで視力チェックし
その後実際の視力を確認してくれる。
点の塊や線の濃さの見え具合などもチェックしてもらって
乱視はそんなにないことが分かり、ちょっとホッとする。
前より2度くらい進んでいるとのこと。
利き目の確認もしてくれて、右目がそうらしいと分かる。
ということは左脳優位ということなのだろうか?

最初はレンズだけ変えればいいかなと思っていたが
いろいろなフレームを見ているうちに、
なんとなくもう1本新しいのがあってもいいかもと、
結局今度はふちありにする。
訓練士が
「古い方は、お台所仕事など、ちょっと距離のあるのに使うといいですよ」
と言って、古い方をメンテナンスしてくれる。
このあたり、サービスというよりメガネという道具を大事にする
という職人気質がビンビンと伝わってくる。
レンズをきれいにし、いつだったか踏んづけたゆがみを直し、
鼻当てを取り換えて、フレームのネジを締めなおしてくれる。
かけてみて鏡を覗きこんだら、あまりの画像の良さに卒倒しそうになった。
たしかに最近は、台所仕事をするのにメガネをかけている方が快適なのだが
メガネをかけて台所仕事をする、というのはどうも自分のイメージに合わなくて
まだ受け入れられずにいる。

ところで視能訓練士という医療資格があると知ったのは
先週末、夫の元同僚夫妻と軽井沢へ出かけた折だった。
元同僚の再婚のお相手が聖路加病院の
眼科に勤務する視能訓練士だったのである。
なるほど、先日飛蚊症のチェックに眼科を受診したときに
さまざまな検査をしてくれたのも、視能訓練士だったのか。

元同僚は10年くらい前に、私も知っていた奥さんを肺がんで亡くしており
お相手も何年か前に眼科医のご主人を肺がんで亡くしていて
同じ境遇の二人が、偶然同じテニスクラブにいたことから
昨年ようやく結ばれた、というのがなりそめとのこと。
彼女の方は、眼科医のご主人を亡くした後、学校へ通って
視能訓練士の資格をとったとの話に彼女の気持ちを感じる。

台風襲来中で天気は雨模様だったが、
三笠会館で昼食を済ませた後4人でセゾン現代美術館へ。
新婚さんのアツアツを横目で見ながら、堤清二さんのセンスを堪能する。
堤清二さんは、私たちの仕事の最初のスポンサーだった。
こういう鮮鋭なセンスがあったからこそ、電話相談という仕事の
新規性、革新性をも見抜くことができたのだろうと納得する。
天気がよかったら、お庭ももっと堪能できただろうとちょっと残念。
でも、また来る機会はあるだろう。

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2011年2月12日 (土)

『通り過ぎた風景』

日経の文化欄で目にした記事に惹かれて
東郷青児美術館へ『櫃田伸也展-通り過ぎた風景-』を見に行く。
損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞記念の展覧会とのこと。

櫃田氏のこどもの頃から藝大時代を経て、
画家として制作を開始するようになった作品が年代順に並べられている。
画家がモチーフを探し、見つけたそれをさまざまに使いこなしながら
表現を試みている様子がとてもよく見える展覧会になっている。

『通り過ぎた風景』というタイトルから分かるように
この展覧会のテーマは記憶である。
記憶のありようが風景に託して描かれる。
それは空き地であり、フェンスであり、池であり、コンクリートの壁である。
でも、それらがどんな風に景色として構成されていたのか
今となってはおぼつかない、という事実が
「不確かな風景」というタイトルも得て再現されている。
あのとき、あそこにあった階段は、どこへどんな形でつながっていたのだろう、
あそこにあった樹の形はどうだっただろうか、
会場を回っていくと、そんなことが自分の記憶の中に甦えってくる。
雪山のゲレンデとおぼしき斜面からは、あのときの寒さとともに
遊びにも一生懸命だった自分、何かが欠落している感じだった自分が浮上してくる。
若いときの欠落は、今でも埋まっていないが、
今は埋まっていないことが気にならなくなった。
それが年を取るということかもしれない。
そんなことも思わされる。
塔を描いているうちにキャンバスが足りなくなって継ぎ足したような
「塔」には、思わず微笑んでしまう。
これが画家の精神というものだ。

日常の風景でも絵になるのだ!と驚いたのは牛島憲之氏の絵に
接した時だったが、櫃田伸也氏の風景はもちろんそれとは違う。
どちらも今という時間の中で、かつて自分の見た風景を再構成しているのに。

出口にあったセザンヌやゴッホがなんだか妙に古めかしく感じられたのは
単に額縁が仰々しかっただけではないのだろう。
さまざまな余計なものがそぎ落とされていく時代に生きている
ということは幸せなことだと思う。

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