2012年3月 1日 (木)

虫の目、鳥の目

東京新聞を購読してみたいと思い、ためし読みを申し込む。

震災以降、いろいろなところでしばしば報道内容が
話題になっていたので興味を持っていたのだが、
現在購読中の新聞を替える決心がなかなかつかなかった。

購読紙のひとつだったM新聞との付き合いは長い。
あんまり長くていつごろから読み始めたか覚えていないくらいだが
外務省の機密漏えい事件がきっかけだったのは確かだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こういう新聞社は応援しようと思ったのである。

他紙に比べると視点が少し違う感じがあり
自分の感覚になじみやすかったことに加えて
マイナーというのも動機になった。
以来30年余り、A新聞、Y新聞の強力な勧誘をはねつけ、
会社を辞めてからはN経新聞をプラスしたものの
軸になるM新聞は変わることはなかった。

変えるきっかけに3.11の震災が影響していることは間違いない。
あまりに自分が何も知らなかったことにショックを受けたのだ。
知らなかったのは、もちろん自分の不勉強もあるのだが
情報源の選択が間違っていたのかも、という気持ちもあった。
しょせん、スポンサー(広告)頼みのメディアは、
スポンサーのご機嫌を損なわないような記事しか書けないという中で
東京新聞からスポンサーが広告を引き上げているという話も気になった。

やっぱり自分に必要な情報は、自腹を切って手に入れるしかない
という気持ちが強くなっていたということかもしれない。
(某国営放送の視聴料には、そういう気持ちはないけど)

で、1週間のためし読みである。

ひとことで言うと、地を這うような目線を持った新聞だと思った。
地を這うような目線というと、どうも読み手が好きそうな
生活雑感的記事と誤解される感じがあるが、
そうではなくて、世の中の複雑な事象を、
からくりから説き起こして、できるだけ分かりやすく書く
という姿勢である。
東京新聞は現在の軸を震災に置いており、
すべてをそこから展開させている姿勢には共感が持てた。
生活実感のような小さな物語と、
政治経済のような大きな物語とが、
分離してしまっている新聞が多いのである。

東京新聞ということで、近隣の県は扱いが小さいのでは
というのもちょっと心配だったが、紙面づくりでは
むしろ近県も同じ大きさで扱っている感じがした。
東京生まれの私は、ずっと東京の方を向いて生きてきたが、
今は東京より居住地の方になじんでしまっているのは不思議だ。
初日の日曜日の社説は、ですます体で、これには心底びっくりしてしまった。
ですます体の社説は生まれて初めてだったのである。
である体の文章は、端的で歯切れがいい反面、
どうしても大所高所からという感じがする(自分で書いていてなんだけど)。
もっともこれは翌日はふつうの文体になっており、
社の方針というより、書き手によるものであることが分かった。

M新聞とN経新聞のどちらを止めるかというのも悩んだ。
我が家は株をやっているわけではないし、若干の
経済の解説記事を除けば、N経新聞は夕刊だけあれば充分
というのが私の本音でもある。
(夕刊だけの配達があるかどうか問い合わせてみたが、なかった)
我が家の男どもも1紙で充分という意見なのだ。
でも東京新聞と対極にあるようなN経新聞を
今しばらく購読するのは、意味があるかもしれないとも思えた。
川下型と川上型から世の中を見てみようということである。
シャットアウトではなく、フェードアウトを意識しているのかもしれない。

長くお世話になった新聞販売所に2月一杯で
M新聞購読中止の連絡を入れた。
あんなに勧誘という外圧に抵抗しながら、
ここまで来たのにと思うと、妙に情緒的になった。
販売所がどういう風に新聞販売でお金を稼いでいるのかは知らないが、
同じ販売所が東京新聞も扱ってくれれば気持ちも安らぐのである。

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2010年10月25日 (月)

ブラックボックスを開けてみよう

昨日は東日本外来小児科学研究会があったのだが
急遽ディペックスのミーティングが入り、メンバーの日程を
合わせることが難しいのでこちらを優先することにした。
インタビュアーの人たちと一緒にサンプルDVDを見ながら、
昨年度作成したインタビューの質についての評価項目を、
具体的に理解してもらわなくてはならないのだ。

外来小児科学研究会のテーマは「常識を見直してみよう」で
ここでの主体は医師である。
仄聞するところによれば、医師は、実感と医学的常識が異なると、
医学的常識に従ってしまうらしいが、むしろ実感を大事にしよう
というのが今回のテーマである。とても結構なことである。

http://hoshikawa.or.tv/eagp/info/26th/26th-program.pdf

ここで大事なことは、実感をどれだけ感覚として感じとれるか、だろう。
「診断」というものが、感覚も含めたどのようなプロセスでおこなわれるのか
医師自らが解析して明示してみるといいのではないかという気がする。

実感を感じとれるかという点は、
ディペックスのインタビューの課題でもあるように思われた。
昨日のミーティングで分かったことは、
インタビューガイドに忠実に従おうとすればするほど
患者の生の声が取りにくくなるのではないか、ということだった。
真面目な(というか権威主義的な)インタビュアーほど、
イギリスの先達から教わった、という事実にこだわっているように見える。
彼らが伝えようとしたことは
「インタビューに際して、患者の意向を損なうような介入のしかたをしてはいけない」
ということであり、そのための基本的な心構えとしてガイドがあるはずなのだが、
それを”正しい結果が得られる方法”という風に理解してしまうと、
目の前の患者の個別性は無視してしまう、ということが起きる。
インタビューや診断の難しさは、相手の個別性に合わせて
目的達成のための方法を、どのようにその場で生み出せるか
ということだと思うが、往々にして、方法さえ学べば
結果が得られると考えてしまっているようである。

個別性をどう重視するかという議論は医療者全般に必要みたいだ。

医療者とジャーナリストたちが作っているSNSでも
最近似たような議論があった。
コトの発端は尖閣諸島の領有問題に関して、
ある右翼系団体のデモを報じなかったことについての
ジャーナリスト側からの説明だった。
ある事象を報道するかしないかは、メディアに選択権があってよいと思うが
だとしたら、どのように選択しているのか明らかにして欲しい。
視聴者や読者は、ニュースがどのように作られているのか知りたいはずだし
それがメディアリテラシーを育む基本条件でもあるのではないか。
そんな風な問いかけに対し、ジャーナリストの人たちから、
個別の事象を報道するかは、そのつど個別の価値判断によっている、
という説明はあったものの、ではそれを支える大元の判断基準は何か、
というkとについては、最後まで明言されなかった。
倫理として下記に拠っているという提示はあったが、
これのどこを見れば、一般人でも「ああニュースってそういう風に作るのか」
と分かるのだろう。

http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~matumoto/ethics/houdou-siryou.html

さいわい、ウィキには「報道倫理」として比較的分かりやすい解説が出ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%80%AB%E7%90%86

ここで興味深いのは、「メディア責任システム」という項目で、
それは下記のように解説されている

フランスのクロード・ジャン・ベルトランは、社会的責任理論を発展させた
「メディア責任システム(メディア・アカウンタビリティ制度、MAS)」を提唱している。
メディア責任システム論は、国家の規制にも、ジャーナリストの道徳心にも依存せず、
メディアの倫理を維持する方法として、メディアの倫理的意志決定過程の一部を
外部に開放する、という考え方である。メディア責任システム論には、
公開で議論し、判断を蓄積することで、倫理的基準が示される利点があり、
1990年代後半以降に、日本でメディア倫理の審査を行う第三者機関が
設置された際の基礎理論となっている[10]。


報道するのかしないのか、どんな風に報道するのか、ということを
どうやって決定したのかという部分は、これまでブラックボックスだったのだろうか。
だとしたら、まずブラックボックスを開けることが、
送り手と受け手が対等な関係を結ぶはじめの一歩になるんじゃないだろうか。
メディアリテラシーとは、そこから始まる気がする。
お題目に依存せずに、自分の感覚も含めた個別の判断を検証する
作業が、どこの分野でも必要になってきているってことかもしれない。

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2010年7月 6日 (火)

医療対象を拡大しない法

土日はディペックスの合宿定例会議兼勉強会に参加する。
場所は逗子。駅に降りると爽やかな風が心地よい。

お昼はどこかで魚料理が食べたいなと探してみるが、
駅の周辺は意外とないみたいで、なかなか適当な店が見つからない。
京浜急行の踏み切りを渡ったところに、マクロビオティっクと
書いた看板が見えたので、そこに入ることにする。
蕎麦屋でもあり、飲み屋でもあるような作りだ。
すでに12時を回っているが、戸を開けたらお客が一人もいない。
一瞬足が止まったが、玄米定食を食べようと決めていたのでそのまま入る。
給仕のおばさんが、こちらの戸惑いを感じて、努めて愛想良く接してくれる。
テレビはNHKの昼番組で仁鶴が出ている。
この時間のNHKは見たことがないので、なんだかものめずらしい。
でも、コロッケ、ひじき、きんぴら、酢の物などの玄米定食は
薄味だったが結構おいしかった。

待ち合わせ時刻に駅に戻り、
途中みんなで「マーロウ」のプリンを買い、今夜の宿の松汀園へ。
すぐに会議室へ移動し、会議を始める。
おやつは、そのプリンだったが、大きすぎて持て余す。
どう考えても200mlはデカすぎ。せいぜい100mlがいいところだ。
定例会議はもっぱらニュースレターの話に費やす。

あっという間に夕食の時間になり、食堂から催促の電話。
夕食は和風フレンチで、なかなかおいしい。握り寿司もついている。
プリンが大きすぎたので、食べられないかと思ったがほぼ完食。
でも、さすがにデザート(小さいムースみたいだったが)には手が出なかった。

夕食後は先にお風呂に入ることにして、8時半から勉強会兼宴会再開。
テーマは「メディカリゼーション」。
近年、高血圧の薬の売り上げが増大しているのは、
何を意味しているかという話から入る。
ディペックスの前立腺がんの患者の語りでは、
PSA検査を受けたという話が沢山出てくるが、
ビデオを編集している隈本先生は、ディペックスが
この検査にしたがって治療することを勧めていると
誤解されるのではと懸念している。
患者の語りは、現在生きている者にしか語れない、
という点でバイアスがかかっているのだが、
そのことはなかなか表面には出ないし、だから理解されにくい。

日本人は、新聞やテレビ、インターネットなどのメディアから
提供される情報を、正しい情報と考える傾向があるといわれる。
ひと頃、医師を取り込むことで市場を拡大して製薬会社は、
近年は患者会を通して市場拡大に動いている。
そういう時代であることを、私たちは強く意識しておく必要がある。
患者の語りは、あくまで個人の体験(事実)に過ぎないのだが
時代の流れは、それを真実だと思わせてしまう可能性があるということだ。
語りのデータベースを読みこなすのもワザが必要なのだろう。

勉強会は次第に盛り上がり、どうやってもっとDBを知ってもらうか
どうやって活動資金を稼ぐか、という話から、
EBMやガイドラインが万能を捉えられがちな、このご時世に、
どのように語りというNBMを対置させるか、という方向に展開する。
途中メチャクチャ眠たい時間を通り過ぎて、終了は午前2時。
何とか観戦をと目論んでいたアルゼンチン×ドイツ戦は、結果も分からず
布団に入ったらあっという間に寝ついてしまった。

翌日は、さくま事務長宅へ場所を移して続き。
群馬の木村先生がサイモン・シンの『代替医療のトリック』をネタに
ホメオパシーの評価のあいまいさをプレゼン。
彼は、これをメディアカリゼーション(医療対象の拡大)の問題に
結びつけようと考えていたみたいだが、議論は思わぬ方向に進む。
ホメオパシーがプラセボ効果しかない、という事実は
むしろ医療の効果とは何かが明確になっていない、ということであり
それはホメオパシーのインチキ性にはつながらない、という流れになっていく。
このあたりが、医療者も多いとはいえ、
社会学系、人文系、患者などのメンバーも含まれている、
ディペックスという集団の面白いところだろう。
多様性が担保されることによって、医療者の常識が覆されていく。
これはメディカリゼーションを解くカギでもあるだろう。
医療崩壊を避けるためには、まずメディカリゼーションを阻止する
ことを考えたらどうかと思うが、そのカギは多様性の担保にあって
チーム医療や、連携は、それには沿っているといえる。
もちろん電話相談の導入も然りである。

木村先生の話から見えてきたことは、
現在のリハビリの効果測定は、医学モデルでしかおこなわれておらず
実は、それは不適当な評価方法であること、その解決には、
リハビリという分野が、医学と生活の両方にまたがっていることを明らかにして、
自らが評価基準を作るしかないのでは?ということで、しかしそれが
なかなか難しいことが、理学療法が専門の木村先生の悩みだということであった。
リハビリの効果測定は、ヨーロッパとアメリカでは目指すものが異なっており、
当然のことながら、それは文化差によっている。
であれば、日本独自の基準があってもいいはずだが、
西洋医学を基本に据えている日本の医療界では、
そこから抜け出して、創造的であろうとすることが難しいらしいのである。
医療界の中の階級(ヒエラルキー)というのも関係しているのだろう。

何かを評価するときには、誰のために、何を目標とするか、
という視点が欠かせない。
どういうものさしを持ってくるかで、ホメオパシーも単なるインチキではなくなる。
今回の勉強会は、ものさしの重要性を考えさせてくれた、という意味では
小児救急電話相談の評価基準を作成しようとしている私にとっても、
示唆に富んでおり、なかなか実りが多かった。
小児救急電話相談は、メディカリゼーションとは対極にある(はずだ)が
これを分かってやっている相談員は、果たしてどれだけいるだろうか。
電話相談は、まさに不確実性そのままの世界であり、
それは医療そのものでもある。
でも、医療の確実さだけを学んできた人たちには、
そこはなかなか理解できない。
電話相談をおこなう人には、まずそういう自覚を持ってもらう必要があるのかも。

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2010年7月 2日 (金)

あれって本気だったの?

ワールドカップ南アフリカ大会も
いよいよ決勝トーナメントの準々決勝が始まる。
まあ、ブラジルは置いておくとして、
アルゼンチンとスペインがどこまで行くかが目下の関心事である。
巷の予想では、優勝はドイツかブラジルというところだが
ラテン系のサッカーが好きな私としては
ぜひともアルゼンチンかスペインに決勝まで行ってもらいたい。
もちろんウルグアイでもパラグアイでもいいのだけど、
がむしゃらなだけでなく、やぱり美しいサッカーが見たい。
美しいという意味は、驚嘆に値するワザ、という意味である。
でも、そういうのを目指すところは、
たいていもうちょっとのところで負けることになっている。
勝つための策を練る方が強いに決まっているからだ。

日本はベスト4を目指してベスト16で終わった。
私も、決勝トーナメントに行けるとは思っていなかった7割の方だから
初戦のカメルーンに勝った時は心底驚いてしまった。
しかし予選を見る限りでは、FIFAランク19位のカメルーンより
27位のコートジボアールの方がはるかに強かったような気がする。
日本が練習試合でコートジボアールに負けて
予選でカメルーンに勝ったのは当然だったんじゃないだろうか。
FIFAランクもあんまりあてにはならない。

オランダには負けて当然と思っていたので別に何ということもなかったが、
失点を1点で抑えたのは善戦といっていいだろう。
それが自信になったのか、デンマーク戦はなんと3:1で勝った。
これは本当に驚きだった。
デンマークの選手と並ぶと、日本の選手は
ディフェンダーでもやっと肩に届く程度である。
この高さは攻略できないだろうと思っていたら
フリーキックで2点、スルーパスで1点、合計3点も取った。
本田と遠藤のフリーキックが、繰り返し放映されて日本中大騒ぎである。
事前期待が低かったので、私はこれでもう充分だった。

決勝トーナメントで最初に当たるパラグアイは
FIFAランクで31位、日本は45位だから勝ち目はあると思われていた。
ボール支配率を抑えて、ワンチャンスに賭けるんだ、とか
延長戦に持ち込んでPKになったら勝てる、とか
下馬評はうるさかったが、私はパラグアイのガッツには勝てないだろうと思った。
普段からサッカーメールでお喋りしている、仲のいい知人には
「たぶん、ここまでは変に色気を出さずに無心でやってきたはずだから
そのまま戦えれば、延長戦ーPKというのもあるかもね」と書いたら
ほんとうにそうなってしまった。
毎回、後半戦残り20分くらいになると、疲労で動けなくなってしまうのに
このときは、あまりそんな感じはしなかったが、
ただ、どうしてルーズボールを積極的に拾いに行かないのだろう、
疲れているのかなあ、と不思議な感じがした。
PKをはずすとは思っていなかったが、駒野が出てきたときに
「ふけるとしたら、ここだね」と隣で見ていた夫につぶやいたら
ほんとにバーに当ててしまった。
でもまあ、PKなんてくじ引きみたいなものだから、これでいいのである。
ベスト4が現実的な目標だと思った人は皆無だっただろうから
決勝トーナメントに進めただけで充分である。
世界はそんなに甘くない。

ベスト4をめざすという宣言が、本気だったのか、
それとも単に、選手を鼓舞するためのフェイクだったのかはよく分からない。
最初から実力とはちょっとかけ離れたところに、
決して現実的とはいえない目標を設定して、
終わってみたら目標には達しなかったけど、
結構結果はよかった、という展開を狙うという手はある。
このやり方のいいところは、言う方も聞く方も、
阿吽の呼吸で、それを現実的な目標とは思っていないところである。
この宣言は一種の儀式みたいなもので、
達成できないということのカモフラージュとして使われる。
誰も現実的な目標だと思っていないから、責任を追及されることもない。
こんなので戦争に勝てるはずがないのに、
特攻隊に自爆させたというのも、これと同じやり方だろう。
そして誰も責任を追及されなかった。

しかし、もしこのベスト4宣言が本気だったのなら、当然のことながら
なぜ達成できなかったか、敗因が分析されなければならない。
本田が頑張った、駒野もよくやった、勇気をありがとう
(勇樹にもありがとうだけど)、感動をありがとう、
なんていうのでごまかしてもらっちゃ困る。
だいたい、なんでそんなに感動や勇気がありがたいのだろう。
そんなに普段から感動や勇気が欠如した生活をしているのだろうか。
メディアは、政治というと政局、スポーツというとお涙頂戴物語
ばっかり流していないで、少しはしっかり対象を批判してくれなくては困る。
それとも、メシの種になるならサッカーの明日なんて
どうなってもいい、とでも思っているのだろうか。
だとしたら最悪である。

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