2014年1月12日 (日)

模擬患者という偽装

今年初めてのディペックス定例会議。

利益相反、当事者性など侃侃諤諤の議論の中で
現在語りのデータベース作成作業に入っている
「がん検診」の報告会もテーマに。
タイトルをどうしようか。
私はインタビュアーの鷹田さんが自分の報告のタイトルにつけた
『何のための検診か』を大タイトルとし、副題に
ー大腸がん検診の語りから見えてくるものーとつけたらいいのでは
という意見だが、「何のための」という表現はがん検診に反対しているように
誤解される可能性があると反論が。

確かに巷を賑わしているがん検診の話題は
そっち方向もあるのかもしれないが
一般人の多くは案外何のために検診(健診もだけど)を受けるのか
ちゃんと考えていないものである。
たいていは越えるべき一種のハードルと捉えており、安心のために受ける。
だからそこで異状がなければ無事ハードルをクリヤーできたとホッとし、
異状があったときに慌てふためくというのが実状である。
まあ決まりだから、というのが実感だろう。

つまり検診の問題とは、何のために実施するのかを受ける側も実施する側も
意識しないまま習慣化してしまっているところにあるので、
それこそが芦田宏直先生が『努力する人間になってはいけない』で
指摘しているところの機能主義なのだけれど、
そのことはおそらく今回の語りの中にも出てきているはずなのだ。
だから運営委員の中村さんも指摘していたように、
「検診」というテーマは私たちの死生観を確認し、
捉えなおすところへつながっていく可能性があるのだ。
それをタイトルで表現できれば訴求力も増すということなのだけど
ただし、受け手はこのこと、つまり自分はどう生きるのか、とか
どう死ぬのかなんてことはふだんは意識していないから
これが不発で終わる可能性は大いにある。

そんなことを熱く議論していたら休憩時間に理科大薬学部教授の後藤さんから
OSCE(http://ja.wikipedia.org/wiki/OSCE)の会議に
参加できないかという打診が来た。
あいにくその日は小児救急のサポート委員会があり
だからチャリティボーリングも不参加なのだけど
面白そうな会議なので、次回はぜひお誘いくださるようお願いする。
薬剤師さんも模擬患者を使ったりして対応訓練をしているのだとか。
じゃないとネット販売に負けて職場を失いかねないということらしい。

うーむ、模擬患者かあ。

患者(相談者)を装って各相談機関に電話をかけた評価結果を
「小児保健研究」に投稿したのは1995年だった。
その後模擬患者を使ったコミュニケーション訓練プログラムが
医療者の対応訓練に導入され、
今では薬剤師もそれを使って研修をしているらしい。
実は#8000の研修にも模擬患者を使ったプログラムが導入されているが
これで電話相談ができるようになると考えているとしたら大きな誤解である。
このことは委員会でもいずれ指摘しようと思っているが、
臨床対話訓練というのは相手の切実さをどのくらい確実に捉えるかという訓練である。
だからどんな疑似プログラムも実際の臨床現場に勝るものはない。
切実さは100%は言語化できないし1回性の固有のものだからである。
だから電話相談であれば声のニュアンスや
やりとりの中でかもし出される雰囲気を感じとれるか、
対面なら、表情や態度と言語表現を総合してどう捉えられるか、という話になる。
ここで問われているのは相手を感じとる自分の感性なのだ。

模擬患者の最大の問題は、患者の側にこの切実さが希薄なことである。
もちろん過去の自分のリアルな経験をネタに切実さを再演することはできる。
しかし、ほとんどの場合は架空の想定を、もっともらしく辻褄が合うように構成しなおし
それをシナリオにして患者を演じているはずである。
それでも演じるのがプロの役者であれば、シナリオが架空でも
それなりの演技で相手の感性を喚起することは可能かもしれない。
しかし同業者である医療者が、一度も体験したこともない
患者という立場を装って演じる模擬患者というのは、ほとんど遊びに近い。

機能主義者がどこか物事をなめているように見えるのは
こういうことなんだろうと思う。

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2011年8月11日 (木)

感情の起源

感情にまつわるできごとで、最近印象に残ったことが2つある。

ひとつはある組織における私のレポートに対するメンバーのひとりの反応。
納得できない、というより十分理解したい(たぶん)、という意図を
よく言えば雄弁、悪く言うと一方的な雰囲気でまくしたてられたおかげで
こちらはハトが豆鉄砲でも食らったような感じになってしまい、
どこが食い違っているのか分からないままミーティングが終了してしまった。
私にしてみたら、なんでこんな基本的なことがワカンナイのかわかんないわけで。
さいわい、そのときの議事録を元に再度レポートを依頼され
おかげでそれまで相手を慮ってオブラートに包んで書いていた問題点を、
極めて鮮明にシビアに指摘する羽目になってしまった。
それは、その組織の根幹に関わることだから、まともに受け止めたら
なかなか大変なことだろうと思うが、まあ、この先も続くことだけにしかたがない。

もうひとつは、海江田経済産業大臣が泣いたという、あれである。
大の男が(女でも同じだけど)公共の場で、自分を憐れんで泣く
というのがよく分からない。
こっちは放射性物質がいつ、どこに降ってくるのかも
はっきりしない状況に置かれているというのに
大臣が泣いてる場合じゃないだろ、と言いたいが、
人目も憚らずに泣くほど大変なことが、きっと彼に起きているのだろう。

これについて内田樹さんが興味深いことを書いている。
http://blog.tatsuru.com/2011/08/10_0940.php

感情の抑制が利かなくなっていることと、
感情を抑制する必要がないと考えることは同根であり
幼児化と関係があるというのである。
そして、こう書いている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だから、他人の内面をダイレクトに操作しようと願う人間
-つまり、「政治的な人間」-は、演技的な怒りや
演技的な悲しみや演劇的な苦悩に熟達するようになる。
政治家が「過剰に感情的になっている」ように見えるのは、
当たり前なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

感情表現によって相手を自分の思うとおりに動かそうとする
というのは分かる気がする。
私たちは、ふつう対面では過度に感情的にならないように気をつける。
相手を感情的にさせて、お互いの間にマイナスの事態が生じると困るからである。
昨今は、そういうところに配慮がない人が多くなっている感じがして、
それは相手に対して無頓着(鈍感)な人が増えてきたからだと思っていたが、
そうではなくて、相手を思うとおりに動かしたい人が増えてきたということなのか。

なるほどそう考えると、
感情を捉えるということが相手の意図を捉えることに直結している
というのが、よく理解できる。

しかし、内田さんの言うように、感情が内部に根拠を持つものではなく
外形的(模倣によって作られていく)だとすれば、
幼児化の起源は、前の世代、その前の世代と遡っていかなくてはならず
前の世代はどう成熟していたと考えればよいのだろう。
いったいどこで成熟という抑制装置がはずれてしまったのか、
それとも、幼児的とか成熟というものの現れる側面が変わってきたのか。
感情の起源に興味がわいてくる。

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2011年6月20日 (月)

アウェーゲーム

今年のディペックスの総会は神楽坂の理科大の大会議室で。
通常総会に続いて、東大死生学応用倫理センターの山崎浩司さんによる
『青森県がん体験談データベース構築プロジェクトの概要と課題』について。
青森のように、地域によって医療機関の充実にばらつきがある地域では
がんで入院すること自体が「死ぬ」ことと同義と捉えられており、
そのことががん検診を受けることや受診の妨げになっている、
という話が興味深い。
がん医療・ケアは、こうした県民の認識や行動を理解しながら
おこなわれる必要がある、というのが彼の結論である。ただ、
社会学系や臨床心理系の人たちが聞き取りをしている割には
データベースのカテゴリには、さほど新規性がない感じだ。
終了後、質的分析に絡めて#8000のデータベースに
有効と思われる要素は何かと問いかけてみる。

その後、各テーブルごとの自己紹介を兼ねた交流会ののち

つるかめ診療所の鶴岡浩樹さんによる『臨床の中の病の語り』について。
鶴岡さんは地域医療がやりたくて栃木で在宅医療専門の診療所を
開設しているというユニークな先生だ。
彼が順天堂の医学生に「病と語り」を理解してもらうために、
どんな話をしているか、というのが講演のテーマである。
EBMで納得してもらえないときに、NBM(ナラティブ・ベイスド・メディスン)を
活用するというのは一般的だが、患者の物語を知ることで
EBM(エビデンスの用い方)も変わってくる、という話を面白く聞く。
特に在宅診療という「在宅劇場」は、
アウェーゲームという部分には大いに共感。
終了後の名刺交換で、在宅診療は、
相手の生活環境の中での問題解決する、という電話相談と
重なる部分が大きいという話をする。

翌日はディペックスのインタビュー評価研究のフィードバック。
作成した評価項目が具体的な事例の中で見えてこない、という
インタビュアーの声に応える形で、
評価者とインタビュアーの間の川に橋を架ける試みをする。
ディペックスのインタビューは、方法論が目的化してしまっており
その人ならではの語りへの心配りが不十分なんじゃないか
という当方の問題提起から、ディペックスのインタビューのあり方
についてへと議論が展開する。
教育の高度化、専門化は、木は見えるが森は見えない人材の
生産に結びついているような感じを受けるが、
ミーティングが終わるころには、当初はデータベースを作成しよう
とする意識が強すぎて、個々の語りを聴こうという意識が希薄だった
かもしれない、という振り返りへ行きつくことができた。
データベースを作成しようと意気込まなくても、
その人のホールライフを聴くことに集中すれば、
結果的にデータベースに必要な内容は集積できるはず、
というのがほかの評価者も含めた私の意見だが、
実際にインタビューをしている人にとっては、
なかなかそう思えない、ということは分かる気はする。

収穫だったのは、第三者による事後のビデオ視聴が
どういう風に役立つかが明らかになったことだ。

たとえば、クリップ(断片)にしてしまうと、
まったく問題ないように見えるビデオでも、
最初から最後まで通して見ると、微妙な違和感を感じることがある。
饒舌に語っているのだが、実は肝心なことを語っていない、
それが何だかは分からないのだが
できるだけ触れまいとしていることがあるような感じを受けるのだ。
全員で見ることで、それがインタビューの同席者(家族)
の存在が原因だったことが分かる。
インタビューの際に同席者に退席を促すのは、なかなか難しいが、
それがインタビュー内容に大いに影響する、ということは、
ビデオを通して見たからこそ分かることで、しかもそれは全体から感じ取る、
としかいいようのない方法によってだけ分かるのだ。
そういう制限のかかった語りがあり、しかしそれも語りなのである。

どうやって話を引き出すか、どのように言葉をかけるかという
一見対話スキルに見えることについても、
DVDを一緒に見ながらだと別の議論になる。
「ここで、どうして奥さんの死について語ってもらわなかったのか」という
問いかけの答えは
「もっと後でと思った」とか
「相手が語りたくないと思っているように感じたから」だったりするのだが
「この人は語りに積極的ではない」と言っているわりには
積極的にタイミングを捉えていない様相が浮かび上がってくる。
それはつまり、語りを妨げているものは
スキルなどといった表面的なものではなく、
実は、「死」や「離婚」についてのインタビュアーの側の心理的抵抗だったり、
話を途中で遮ることができないインタビュアーの対人関係の持ち方、
あるいはアイデンティティの問題だったりする。

「ここは切ってもらって構わないんですが」という語り手の言葉を
「ここは切って」と捉えるか、「あなたの都合で決めて」と捉えるか、
それも実はスキルではなく、相手の言葉を受け取る、
こちら側の心のあり方の問題なのだ。

アウェーで問われているのは、実はホーム(自分)だといえる。

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2010年10月25日 (月)

ブラックボックスを開けてみよう

昨日は東日本外来小児科学研究会があったのだが
急遽ディペックスのミーティングが入り、メンバーの日程を
合わせることが難しいのでこちらを優先することにした。
インタビュアーの人たちと一緒にサンプルDVDを見ながら、
昨年度作成したインタビューの質についての評価項目を、
具体的に理解してもらわなくてはならないのだ。

外来小児科学研究会のテーマは「常識を見直してみよう」で
ここでの主体は医師である。
仄聞するところによれば、医師は、実感と医学的常識が異なると、
医学的常識に従ってしまうらしいが、むしろ実感を大事にしよう
というのが今回のテーマである。とても結構なことである。

http://hoshikawa.or.tv/eagp/info/26th/26th-program.pdf

ここで大事なことは、実感をどれだけ感覚として感じとれるか、だろう。
「診断」というものが、感覚も含めたどのようなプロセスでおこなわれるのか
医師自らが解析して明示してみるといいのではないかという気がする。

実感を感じとれるかという点は、
ディペックスのインタビューの課題でもあるように思われた。
昨日のミーティングで分かったことは、
インタビューガイドに忠実に従おうとすればするほど
患者の生の声が取りにくくなるのではないか、ということだった。
真面目な(というか権威主義的な)インタビュアーほど、
イギリスの先達から教わった、という事実にこだわっているように見える。
彼らが伝えようとしたことは
「インタビューに際して、患者の意向を損なうような介入のしかたをしてはいけない」
ということであり、そのための基本的な心構えとしてガイドがあるはずなのだが、
それを”正しい結果が得られる方法”という風に理解してしまうと、
目の前の患者の個別性は無視してしまう、ということが起きる。
インタビューや診断の難しさは、相手の個別性に合わせて
目的達成のための方法を、どのようにその場で生み出せるか
ということだと思うが、往々にして、方法さえ学べば
結果が得られると考えてしまっているようである。

個別性をどう重視するかという議論は医療者全般に必要みたいだ。

医療者とジャーナリストたちが作っているSNSでも
最近似たような議論があった。
コトの発端は尖閣諸島の領有問題に関して、
ある右翼系団体のデモを報じなかったことについての
ジャーナリスト側からの説明だった。
ある事象を報道するかしないかは、メディアに選択権があってよいと思うが
だとしたら、どのように選択しているのか明らかにして欲しい。
視聴者や読者は、ニュースがどのように作られているのか知りたいはずだし
それがメディアリテラシーを育む基本条件でもあるのではないか。
そんな風な問いかけに対し、ジャーナリストの人たちから、
個別の事象を報道するかは、そのつど個別の価値判断によっている、
という説明はあったものの、ではそれを支える大元の判断基準は何か、
というkとについては、最後まで明言されなかった。
倫理として下記に拠っているという提示はあったが、
これのどこを見れば、一般人でも「ああニュースってそういう風に作るのか」
と分かるのだろう。

http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~matumoto/ethics/houdou-siryou.html

さいわい、ウィキには「報道倫理」として比較的分かりやすい解説が出ている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%80%AB%E7%90%86

ここで興味深いのは、「メディア責任システム」という項目で、
それは下記のように解説されている

フランスのクロード・ジャン・ベルトランは、社会的責任理論を発展させた
「メディア責任システム(メディア・アカウンタビリティ制度、MAS)」を提唱している。
メディア責任システム論は、国家の規制にも、ジャーナリストの道徳心にも依存せず、
メディアの倫理を維持する方法として、メディアの倫理的意志決定過程の一部を
外部に開放する、という考え方である。メディア責任システム論には、
公開で議論し、判断を蓄積することで、倫理的基準が示される利点があり、
1990年代後半以降に、日本でメディア倫理の審査を行う第三者機関が
設置された際の基礎理論となっている[10]。


報道するのかしないのか、どんな風に報道するのか、ということを
どうやって決定したのかという部分は、これまでブラックボックスだったのだろうか。
だとしたら、まずブラックボックスを開けることが、
送り手と受け手が対等な関係を結ぶはじめの一歩になるんじゃないだろうか。
メディアリテラシーとは、そこから始まる気がする。
お題目に依存せずに、自分の感覚も含めた個別の判断を検証する
作業が、どこの分野でも必要になってきているってことかもしれない。

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2010年10月18日 (月)

縁は異なもの

バレエのレッスン中に痛めた足の筋肉が、ようやく少しずつ回復してきた。
専属のトレーナー(かかりつけの鍼灸院の先生)によると
「筋肉は修復に時間がかかる」ということで、
私の足も野球選手かサッカー選手並みである。

来月に芸術祭を控えた今回のバレエの演目は、
私以外の人たちは前に舞台で踊った経験がある。
私だけが初めてということになり、プレッシャーが大きい。
振り付けを覚えようと、以前の舞台のビデオを見て練習するが
左右を転換しなくてはならず、これはなかなか難しいと分かる。
群舞なので、他の人と振りや音を合わせなくてはならない。
ビデオカメラに撮った映像を見せてくれた仲間がいて
そうだ、i-phoneのビデオアプリを活用すればいいのだと気づいた。
さっそくテレビ画面でビデオを再生し、i-phoneを画面の前に掲げて録画する。
甚だアナログなやり方だが、音と映像さえ撮れれば、これで充分である。
なかなか優れものの携帯である。

i-phoneに買い換えたのは、以前のnokiaが古くなって
電池の持ちも悪くなってきたからだが、一番の動機は
録音機能がついた携帯電話が欲しかったからだ。
私以外の我が家のメンバーは、みんな早い時期にi-podを買ったのだが
その時点では、あんまり買おうという気にならなかった。
ウオークマンの時ほど音楽を聞かなくなったということもあるが、
映像を携帯する、ということにさほど食指が動かなかったこともある。
でも最大の理由は、それらの機能は通信通話機能も含めて、
いずれ統合される(そうなって欲しい)と考えていたからでもある。
そうして予想通りの展開になった。
理想的には電話とパソコン機能が一体化してくれれば、
それがベストだが、それには画面がちょっと小さすぎるのが難だ。

と思っていたらi-padが出た。
当初は5000冊も本を持って歩く必要なんか!と考えていたが、
自分で字を大きくできる、とかマルチメディア化(音や映像と活字を一体化)
した本が読めると考えると、これもなかなか先行きが楽しみである。
すでに通信機能はついているから、
あとはPCのオフィス用アプリケーションが使えるようになれば、
これは文句なしに買いである。持ちやすそうだし。

そのi-padで面白いと思ったのは
ソーシャル・リーディングという可能性だ。
同じ本を読んでいる人同士で、通信機能を使い
同じ文章などを選んで本の感想を言い合うことができるらしい。
遠隔読書会である。

なるほどねー。

インターネットで見知らぬ人同士が結びつくようになったおかげで
ますます会ったこともない人同士が交流する機会が多くなる。
地縁や血縁とは異なる縁が、どんどん増えて行くのだろう。
これが人をどんな風に変えていくのか、これも楽しみである。

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2010年8月14日 (土)

『乖離』という成熟のしかた

今年も終戦記念日に向かって、戦争を題材とした番組が次々と放映されている。
中国でおこなった戦争犯罪に対する追求を逃れるために
被爆者の治療はそっちのけで、被爆の実態をレポートにして
アメリカに伝えていたという事実を伝えた番組もあった。
日本は、このことをこれまで一切公表しておらず
上層部の責任を回避するために、国民をないがしろにしたという事実が、
戦後50年以上経ってようやく明らかにされた。

今年は戦争がどのように始まり、どのような経過を辿って
どのように終結したかを通り一遍ではなく、
より詳細にあからさまに伝える番組が多いような気がする。
戦時の白黒映像をカラー化して放映するという試みもあり
現実を直視しようとする姿勢が強くなっている感じがする。

一連の番組から伝わってくるのは、
日本の戦争の仕方の無謀さもさることながら
人間は、つい最近まで(といっても65年前までだが)
こんなにも熱く、感情的に振舞っていたのだという、何か遠い感覚である。
人と人が殺しあうことや、領土を広げることに対して、
いったい何がこんな風に熱狂的にさせたのだろうか。
もちろん、実際の生活場面で近しい人に対して、
さまざまな負の感情を抱くことはふつうにあるだろうが、
それは勘違いにせよ、独りよがりにせよ、直接的な関係に基づいたものだ。
でも戦争では、ほとんどの場合相手は見も知らない人だし、
自分が実際に手を下すことも少ない。
だからこそ、どんな感情も抱くのだといえばそうなのだが
そこに経済的な必然が強調されればされるほど
日本の戦い方は、目的達成には程遠く、
鬱陶しいほどの濃い感情に囚われて身動きのとれない、
まるで合理性を欠いた戦い方に見える。

今を生きている私から見ると、そこに大きな違和感を感じるのだ。

一方最近周囲の人間を見ていて感じることは、
部分的には感情的な振る舞いが見られるにしても
全体として多くの人たちは冷静で、物事を多面的に捉えることに
慣れて来ており、無用な諍いは避ける傾向があるように見えることである。
秋葉原で無差別殺人をおこなった若者に対して、
当初は幾分かの同情を持っていたものの、
彼がネットの中にしかリアルがなかった
と言うのを聞いたときは疑問符だらけになった。
ネットは相手と対話をするシステムではなく、
むしろ自分と対話できるシステムであって、
その意味で完璧なバーチャルであるはずなのに、
ネットを使いこなしているように見える若者でさえも
それが分からないことがあるのだ、と意外だったのだ。

もちろんネットの世界でも(この場合はSNSのような対話システムだが)
妙に熱くなる人というのはいるものだが、文字の世界では
書かれた字面からは、それが相手の本音なのか、演出なのか、
はたまたこちらが過剰に読み込んでいるのか、ということは判然としない。
だから(しかたなく)文字に起こされた事実だけをつかみ、
それに対して自分の意見を表明する、ということになる。
これが無用なトラブルや、感情の波立ちを抑える方法だというのは
いわばネットの処世術であろう。

で、現代の若者たちが覇気がないと言われるのは、
ある意味当たっているのかもしれないが、たぶん豊富なネット経験の中で
きっとこういう振舞い方を自然に身につけ、それが彼らの
ある種の穏やかさにつながっているのではないかと思うのだ。

そんなことをつらつらと考えていたら
昨日のプライムニュースがタイミングよく『日本人と宗教』を論じていた。
お盆の時期だからだそうだが、しかしこれが存外に面白かった。
前半のスピリチュアルの部分は見逃してしまったのだが、
現代の宗教は、かつてのように何かを信じ、
集団の力で自分たちをシアワセにしようとするものではなく、
自分と向き合い、心を豊かにしたい、という個人化した動きに変わりつつある。
仏像ブームは、その象徴であるというのだ。
仏像を眺めることで、人は自分が何者かを自問する。
そこには、濃すぎる人間関係を逃れようとする力が働いている。
とりわけ面白かったのは、島田氏が宗教における重要な役割として
「乖離」を挙げたことだった。
つまり自分を見るもう一人の自分、というものをいかに育てるか
これが「成熟」ということで、宗教とは本来そういう成熟を目指すものなのである。

秋葉原での無差別殺人の若者や、
第二次世界大戦を実行した軍部がなんだか幼く見えるのは、
そこに、乖離という成熟のあり方が感じられないからなのだろう。

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