2015年9月 4日 (金)

オリジナリティ?

佐野研二郎さん制作の五輪エンブレムが白紙撤回された。

ツイッター上では、似ているかどうかで判断されたら
自分ではとても検索しきれないから明日は我が身
というような心配をしているようなアーティスト
(歌手、画家、文筆家etc)も多い。


今朝は茂木健一郎さんも「オリジナリティ」について
http://togetter.com/li/869249
ツイートしていた。

オリジナリティというのは「驚き」を
もたらす前代未聞に満ちたものだという意見に異論はない。

でも私はもう少し違った風にも考えている。
まとまっていないかもしれないけれど書いてみよう。
ブログはこういうときに役立つね。

私の好きな映画で『ファム・ファタール』というのがある。
監督はブライアン・デ・パルマ
音楽は坂本龍一

デ・パルマの映画に出てくる女優は官能的で怪しく
女から見ても惚れ惚れするが、ここでもそう。
アントニオ・バンデラスの柄の悪いセクシーさと
妙な一途さと絡まって、より展開を複雑にしている。

坂本龍一の音楽は明らかにラベルのボレロを
下敷きにしており、おそらく監督からそのような
指示があったのだろうと推測させる。

佐野さん風にいえば「パクリ」の指示である。

ではこの音楽にオリジナリティがないか
といえば、私は充分にオリジナリティがあると思う。
デ・パルマと坂本龍一が自分にとっての
好み(ひいき目)であることを差し引いてもだ。
ボレロの単調なリズムが展開の複雑さを
下支えしてこの映画を味わい深くしている。

映画は総合芸術だから音楽は一要素にすぎない
という意見もあるかもしれない。
しかしそれでいえば、エンブレムだって
オリンピックの一要素でしかない。
エンブレムという要素は2020年のオリンピックの
何かを表現する一要素だろう。

佐野さんが白紙撤回せざるを得なかったのは
パクリ疑惑(似ている)からというより
オリンピックの何を表現しているのか
伝える力に乏しい作品だからではないだろうか。
そのことが不明朗な選考過程もあって露呈してしまったのだ。
もちろんこれはどういうオリンピックにしたいか
という主催者の問題意識と意図が明確ではなかった
ことに原因があるけれど、アーティストなら
そこをとことん詰めるべきだっただろう。
その結果パクリであっても納得ができるものを生み出せれば
誰も異論はなかったと思われる。
パクリは敬意の一種でもあるからだ。

表現というのはどんな時代、どんな場に自分が
いるかということの発信行為であり
芸術というのはそれを見せてくれるものだ。

問題はパクリ疑惑なのではなく
アートディレクターとしての力量が
問われたということだろう。

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2013年9月12日 (木)

オリンピックがもたらしてくれるもの

2020年オリンピック開催は東京に決まった。
個人的にはイスタンブールに取らせて
世界の富を平準化したかったが、
日本もデフレに苦しんでいるこの際、オリンピックが来ることで
福島の復興が進む可能性に賭けたいという気持ちを許してもらおう。

生涯に2度も生でオリンピックを経験できるという以上に
こどもたちに生オリンピックを経験させてやれることが素直に嬉しい。
64年のオリンピックの時私は中学生だった。
この時代はあとから振り返って「貧しかった日本」とか言われる時代だが、
渦中にいた者としては、特別貧しいとは感じていなかった。
ただ日々の食べ物に困るということはなかったけれど
個人的にはいろいろと過酷なことを経験していた時代で、
それが貧しさによってもたらされたものなのか
人間の本性によるものなのか、今も考え続けてはいる。

そんなこともあり、マラソンのアベベと円谷、
長時間の棒高跳び(ハンセン、ラインハルトという名前はもうすっかり忘却)
東洋の魔女と言われた女子バレーボールなどには大興奮だった。
ひとつひとつの競技に感動して新聞を切り抜いたりもしたが
なんといっても圧巻は閉会式だった。
開会式はお行儀のよい行列以外はほとんど記憶にないが、
(それさえも映像でやっと思い出す程度だが)
閉会式に各国の選手が肩を組み、あるいは手に旗を持って
てんでんばらばらに、楽しそうに嬉しそうに入場してきた光景には、
ほんとに度肝を抜かれてしまった。
瞬間的に、ああこれがオリンピックだと思えた。
国や人種を超えての交歓。これがオリンピックの本来の姿なのだと。

現代風に考えると誰の演出?などと考えてしまいそうだが、
当時はこれはどうやらほんとうに、
係り員が選手たちを制止できなかった結果らしかった。
(NHKのアナウンサーはしきりにそう言っていた)
なんでも言われた通りにしなくてもいいんだ!という感覚も
このとき強烈に意識づけられたように思う。
メダルを取るか否かではなく、大事なのは主体であるという意識なんだと。

情報化が進んだ今では、こんな素朴な話はおとぎ話に聞こえるだろう。
若い世代は私たち世代より国家意識が強く、しかし
同時に国境を超えた世界市民意識も強そうに見える。
9.11後のイラク爆撃が解決になると考えた人は少なかったはずだが
私たちは情報戦に負け、時として世界は不本意に動くものであり、
平和を実現するのも一筋縄ではいかないことを痛感したのだ。
(もちろん、ベトナム以後ずっとそうだが、情報戦を痛感したのはイラクが大きい)
シリアへの爆撃を主張するオバマへの反対が多いのはその成果だ。
政治家は一般市民を危険にさらさない方法を考えるのが仕事であって
大統領のメンツなんかで動いてほしくない、というのが一般人の本音だろう。

7年後のオリンピックは、こうした世界市民意識を国境だけでなく
健常者と障害者の間にも敷衍させる機会であってほしい。
私たちはある意味誰もがハンディキャップパーソンなわけで、
健常者と障害者というように言語化して区別するほどの
差は本来的にはないかもしれないからだ。
ぜひ7年後のオリンピックでそれを実証して見せてほしい。

そう考えるとオリンピックが「東京」へ来たのもまんざらではない気分になる。
自分の差別意識をもっとも意識化できていないのが日本人だとも思えるからだ。


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2012年8月12日 (日)

オリンピック~成長の証し

少し前に、映画を観たら記録をつけようと決めた。
年を取ってだんだん忘れっぽくなり、観たはずの映画の題名と内容が
怪しくなってきたので、観たという刻印のためにも
外部記憶に頼ることにしたのである。
でもこれが全然実行できない。
一応入力形式は作成したのだが、文章化という作業が面倒なのである。
我ながらまったく意志薄弱である。
こうやって日々は無為に流れていくのだと思うと少し腹立たしい。

『ダークナイト・ライジング』は、全然自分の趣味じゃない映画だったが
BC東京映画班で話題になったので観に行った。
コミックが原作だから、荒唐無稽なところはあるにしても
それなりに面白くできていて、極太タイヤの二輪車なんか超カッコいい。
まあ最近はCGで何でもできてしまうから、派手なドンパチの迫力とか
上を下への大展開にはそんなに驚かないが、
あらあ、あの子は彼女だったの?という筋書きは意外性があってよかった。
アメリカの銃社会の裏には、深い怨念のようなものがあるのだろうなと思う。

ギンレイで観た『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』は
アカデミー賞にノミネートされたときから観たかったのだが、
例によって見逃したので、ギンレイにかかったのをさいわいお盆休み前に観に行った。
ケネディの時代にも南部ではまだあんな人種差別があったのだ
というところがちょっと驚きだが、それはこちらが実態を知らなかっただけなのだろう。
人が人を差別する、というのは人種に限ったことではなく、どこにでもある。
黒人には白人のトイレを使わせない、といったような差別的な扱いは
たとえば血縁かそうでないか、といったような場合でもよくあるし
いじめの問題などにも通底している。
人は仲間を作りたがり、それは仲間以外を排斥することで成立する。
差別することによって、同族間の絆は強まるから
「絆」を強めることは必ずしもプラスにばかり働くわけではないのだ。
身内意識が強固ということは、それだけ差別意識も強固ということだが
見えない半面については当の本人たちはほとんど自覚していない、
というのが厄介なところでもある。
この辺は『ダークナイト・・・』にも通じることだろう。

こういう観点からオリンピックの報道を見ると
やはり大陸(イギリスも大陸の内として)は人種のるつぼだ、ということがよく分かる。
各地からやってくる選手たちの人種が多様なのは当たり前だが
運営している役員やスタッフも実に多様である。
こんな風に見た目もさまざまな人が、あちこちで公式な仕事をする
というのは日本では考えられないだろう。
ここまで来るのには、きっと多くの異文化コミュニケーションが
乗り越えられてきたに違いないと思うと、
商業主義のオリンピックもちょっと感慨深く見てしまう。

女子サッカーの3位決定戦のレフェリーは、明らかに東洋系だったが
国籍はスウェーデンで、この人が韓国生まれの北欧育ちと聞いて、
そういう人がオリンピックで笛を吹くまでになったというところに、
差別という時代の問題をかぎ分け、リスクを冒して
著書をものにした『ヘルプ・・・』の主人公(スキーター)が重なり、
サッカーの試合にもちょっと別の意味を感じてしまった。

ちなみに、この試合はフランスの猛攻撃をしのいでしのいで
最後のロスタイムに1点をもぎ取ったカナダが銅メダルを獲得した。
こういうところがサッカーの面白いところでもある。

体操の中国のように、勝つためにひたすら技を磨き、
足が伸びているとか、両足が揃っているといった美しさなどは気にも止めずに
勝利にまい進する、というのもひとつの考え方だし、
内村航平君のように、美しさを追求する(その結果の金メダル!)のも立派である。
観る側から言えば、オリンピックの見ごたえは勝敗ではなく、
そこで世界レベルの素晴らしい技を見せてもらえるところにある。
観客は、素晴らしい技という成果の後ろに、そこへ辿り着くまでの
長い道のりと、ひたむきな努力を感じとる。
そういう意味では、オリンピックは成長の証しを観る機会なのである。

今回の男子サッカーは「化けた」と評されたが、
なでしこの大儀見が昨年のワールドカップから見せてくれたような成長を
次回は宇佐美にも見せてもらいたいと考えているのは私だけではないだろう。

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2012年7月26日 (木)

イチローという「個」

イチローのヤンキースへの電撃トレードにはびっくりした。

シアトルでのマリナーズとヤンキースとの三連戦の初日の発表で
しかも移籍発表のその日に、ヤンキースの選手として登場する
というあたりは、ドライといえばいいのか、ドラマチックといえばいいのか。
まあ、トレードの噂は以前からあったらしいし、
WBCあたりから調子が落ちてきた様子を見れば、
イチローもいろいろ考えるところがあったのだろうと思う。

そういう「事情」はあるとして、ここではJMMの
冷泉さんのレポートの感想を書いておきたい。

冷泉さんは
JMMNo.698 Extra-Edition2
https://mail.nifty.com/mailer/mailview.html
『BALLPARK OF DREAMS』 第6回
「イチロー選手はヤンキース移籍というチャンスを生かせるか?」で

イチローの会見が英語でおこなわれなかったこと、
通訳がいまいちだったこともあり、決して成功とは言えない会見だった
ことなどを述べている。
アメリカ野球における名誉の概念をイチローが理解していないのではないか
アメリカ文化における振る舞い方を(本人の責任とは言わないまでも)
心得ていないのではないか、とも述べている。

アメリカ生活の長い冷泉さんならではの、
苦言とは言わないまでも、親心だろう。

でも私はニュースでの断片的な会見の模様を見ながら
ちょっと違う感想を持った。

イチローが流暢な英語を喋らない(喋れない)という問題はあるのかもしれない。
しかし、あの涙ぐむほどあふれるような思いを
英語にするのは、なかなか難しかっただろうと思うのだ。
彼がどれほどシアトルのファンのことを考えていたか、
どんなにマリナーズのユニフォームを脱ぐことに悩んだか
ということは、日本語だからこそよく伝わってきた。
あれが英語だったら、内容としてアメリカ人には理解されたかもしれないが
日本人にはいまいち伝わらなかっただろうと思うのだ。
おそらくなによりもイチローが考えたのは、
アメリカにいる人たちに何かを伝えることではなく、
日本人としての自分が何を思ったかを、
日本にいる私たちを介して伝えることだったのではないか。
そういう意味では、「場違い」なのかもしれないが
相変わらず彼らしさを貫いたといえる。

こういうウエットな真情を述べることは、アメリカという文化や
ビジネスの場の中ではマイナスなのかもしれない。
しかしイチローは、そういう外形的なことより
自分とファンとの相互理解を選んだのだろう。
そしてファンは、禅問答と揶揄されようとも、そういう彼を理解するし、
彼にももちろん、理解されるはずという思惑があったということだ。
この辺は、アメリカでのビジネスに成功した冷泉さんにしてみると
ちょっと感覚が違うのかもしれないが、
異文化における振る舞い方という意味では、時代の変化を感じさせる。

こうやって私たちは「個」というものを学んでいるのかもしれない。

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2011年7月20日 (水)

ハンサム・ウーマンたち

震災後頭の隅から離れないのは、震災で親を亡くしたこどもたちに
どうやって手を差し伸べればいいのか、ということである。
長丁場になると思うと、途中で止めることにならないよう
自分にとって無理がなく、かつ相手にとって有効な支え方を
なんとか見つけ出したい。

なでしこジャパンがドイツで優勝したときも、そんな風に感じた。
サッカーをやるために、アルバイトで生計を立てている彼女たちを、
どうやったら支えていけるだろうか、と考えてしまうほど
今回の一連の試合には心を揺さぶられるものがあった。

ニュージーランドとの試合は、やけにピッチが広く感じられて
なんだかサッカーじゃないものを見せられている感じがしたものだが
メキシコとの試合あたりから、俄然面白くなってきた。
でもイングランドに負けて、2位で決勝トーナメントに勝ち上がったときには
「とりあえずここまでこれただけでも、たいしたもんだ」と正直思った。
だからドイツに勝った時には、ほんとに奇跡が起きたような気がしたものだ。
振り返ってみると、このドイツとの試合が一番怖かったんじゃないだろうか。
そしてスェーデンとの試合では、技だけでなく、したたかさも充分あると分かった。
でも、どの試合でも総じて落ち着きすぎるほど落ち着いていた、という印象が強い。
そりゃ持ちすぎだろ、と思うくらい、いつも同じようにボールを保持して、
決してアタフタしない、というところが男子のサッカーと違う感じがするのは
恵まれた環境にいない、ということの結果だったのかもしれないとも思えてくる。

もうひとつ女子サッカーが男子のそれと違うところは、
頭でやっていない、と感じさせるところである。
もちろんヘディングは頭でやるのだけど、彼女たちにとって、
頭はあくまでボールを飛ばすための道具として使われている感じがする。
いや、ほんとは周到に練られた戦術に基づいておこなわれており
それを感じさせないほど熟達の域に達しているのかもしれないが
観ているこちらには、まるで阿吽の呼吸でボールが回っていると感じさせるほど
臨機応変にいろいろなプレーがおこなわれていたということである。
男子のサッカーは時として、「そこからサイドバックが駆け上がるんだよね」とか
「今、誰かが中へ走り込むのを待っているんだよね」といったことが
見えてしまう部分が結構あって、なんだか教科書片手に試合の仕方を
勉強している感じもあり、実はそこが興を削ぐ一因にもなっている。
ゴールへ向かう以前の、試合の組み立てに
エネルギーを費やしている感じが強いのだ。

それに比べると、なでしこがゴールに向かう気持ちは、もっとひたむきである。
ゴールを狙えれば、そのプロセスは何でもあり、であり、
そのために各自がひとりひとり感じたように動いていて、だから印象としては
常にゴールへ向かって選手たちが走り回っているように見える。
そして、実はそれが彼女たちのサッカーを面白くしているのではないかと思うのだ。

目標に向かって方法を定型化し、
できるだけ効率よく目標に達成しようとするオトコノコと
目標が決まったら、与えられた方法は環境の変化に応じて
自在に自分たちで変えていくオンナノコたち。
なでしこが見せてくれたのは、自分たちの特性を
充分に発揮して勝利を得ることであり、
それは私たちが密かに望んでいることでもあった。
だからこそ、こんなにも心を揺さぶられたのだろう。

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2011年6月 8日 (水)

「The door in the wall」

FC東京はJ2に降格したが、応援団はJ1から継続している。
今回は場所が駒沢競技場ということもあり、近くで開業している
仲間のドクターが二次会をセッティングしてくれて、
いつものイレブンで観戦ということになった。

爽やかな風が吹く応援日和だったが、試合は先制したにもかかわらず
後半愛媛FCに追いつかれ、結局引き分けで終了した。
選手が若返ったせいか、以前より積極性は増したように見えるが
愛媛FCのようながむしゃらさが感じられない。
これを都会っ子のせいにするのは当たらないだろう。
だって選手の出身が東京とは限らないわけだし。

試合後、うなだれてサポーターにあいさつ回りしている選手に
「それでいいと思ってんのか」という怒号が浴びせられるのは
見ていてあまり気持ちのいいものではない。
孫のような世代の選手たちが、のびのびと試合ができるようになるためには、
どういう鼓舞の仕方がいいのか、同年代からの叱咤激励というのも
ありだろうとは思うが、なんかいい方法はないものか。

二次会は「TSUNAMI」というハワイ料理のお店。
駒沢という場所柄か、なかなかおしゃれである。
30年前の新婚旅行で食べたような魚料理があるかと思ったが
今回はなく、でもデザートのフルーツを盛ったパイナップルは
酔っ払いついでにみんなで破壊しつくして、しゃぶってしまった。
ただ11人ともなると、必然的に話ができる人は限られてくるし
話がどうしても懐古的になるのも、年代的にしかたがないのかもしれない。
サッカーの話から足のしびれの話、写楽から映画へと、
話題はひとところに留まらず、あちこちに飛び、行方が分からない。

ひとりが、高校の英語の授業で読んだH・G・ウエルズの
「The door in the wall」が印象的だったという話になったので
どんな話なのかと聞くと、壁にドアがあって、
それを開けるとどうのこうの、という内容だという。
へえー、『アジャストメント』という映画もそういう映画だったよ、
と口をはさむが、ほとんど気にも留められず話題はうつる。
この日は風邪の引き始めだったこともあって、
やっと家に帰りついたあとは、頭痛に悩まされながら眠りについた。
翌日は声も枯れて、これはもうほんものの風邪である。

気力がわかないので、ぐうたらついでにふと思い立って
「The door in the wall」の邦題を調べてみた。
すでにいろいろな訳が出ており、題名も「塀についたドア」
(なんとも野暮ったい題名だが)とか「くぐり戸」とかいろいろである。
ウエルズの「タイム・マシン」という短編集に収載されていると
分かったので、図書館で借りて読んでみることにした。
ところがこれが『アジャストメント』にビンゴ!だったのである。
筋立ては、ディックの「調整班」よりむしろこっちの方が近い。
ドアの向こう側の描写も、本の中に人の動きが見える
というアイデアも、ちゃんとこの本の中に出てくる。
映画『アジャストメント』は、ウエルズとディックを
ミックスしたものだったのである。
「アジャストメント」の原作で解説者が
「あまりに原作と違うので、映画を観た人は呆然とするだろう」
と書いているのは、ウエルズまで手が回らなかったということか。

ウエルズのドアが意味するところは、
後年ディックもエッセイで書いているように
現実の線形時間に直交する時間である。
ただウエルズの作品では、最終的に主人公はドアの中に入って死んだと
暗示されており、直交する時間を経験することは手放しで評価されていない。
これが書かれたのは1906年で、ディックの「調整班」は1954年、
ディックのエッセイ「人間とアンドロイドと機械」は
1976年の作であることを考えると、
ウエルズの時代には、現実の時間から一瞬でも降りること、
つまり、現実とは別の自分の存在を認めるというのは
思いもよらないことだったのだろう。
にもかかわらずウエルズは、そのことの意味をすでに指摘しており
そして2011年の現代、『アジャストメント』の主人公は
直交する時間に助けられてハッピーエンドを手に入れる。

作家の創造性とはかくも偉大なものなのである。

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2011年1月 4日 (火)

うねり

雲ひとつない青空が広がる新年。
2日続けてテレビの前で箱根駅伝を応援し、
東洋大が復路優勝できなかった無念を晴らすために
以前に某新聞社からもらった駅伝応援用コート着て
近所の浅間神社に初詣に行く。
いつもは午前0時の真っ暗な夜道を、懐中電灯の明かりを頼りに
歩いて行くのだけれど(どんだけ田舎!)、
今年は寒そうなので止めたのだ。
さすがに昼間はそれほど寒くなく、怖くもなくて気分がよい。
本堂以外はしっっかり閉まっており、神社もお正月休みなのね。
おみくじは末吉。
人のために力をつくしなさい、と。

クライアントの先生からの年賀状に
「時間外の相談と電子カルテを連動させたい」というのがあった。
時間外の相談をおこなう上で難しいことのひとつに
クライアント医院との情報共有がある。
最新の医学情報は、さまざまなネットワークを使えば
現代では比較的容易に入手できるが、
難しいのは院内で共有している情報を
院外でも共有できるようにすることだ。

院内では特に意識しなくても、
日常的なコミュニケーションが取れていれば情報は共有できる。
たとえばインフルエンザのワクチン予約は
もう一杯なのか、まだ大丈夫なのか、といったようなことは、
院内ならちょっとPCを覗けば済む。
しかし院外では、わざわざ知らせてもらわない限り
そういう細かい情報を把握する術はない。
院内で共有している情報のどれが院外でも必要かは
院内にいると案外分かりにくい、ということも共有を難しくしている。
これは思いやりとか想像力が、経験を切り離してはあり得ない
ということとも関係があるのだろう。

クライアントの多くは必要と思われる患者情報をこまめに
送ってくれたりするが、電話相談の常で
予め用意された情報が役に立つことはあまりない。
もちろん情報を用意しておくことは保険と同じで
備えあれば憂いなし、ではあるのだが、
「事実は小説より奇なり」と言うように、
患者のニーズは、こちらの想像の域を超えているからだ。
だからリアルタイムに院内情報を院外で共有するシステムは
患者が自分のカルテを自由に見るのと同じで
これからの医療では必須だといえる。
これも医療連携の一種である。

電子カルテの導入が始まったときに、まず考えたのは
これで院外でも院内情報の共有が可能になる、ということだった。
でもまだ時間外の電話相談さえ充分に認知されていない状況で
そんなことを考えるのは、遥か遠くにそびえる山の頂めがけて
歩き出すようなもので、どこから登ったらいいのか
どのくらい歩けばいいのか、皆目見当がつかなかった。
そもそも電子カルテが、時間外の対応まで視野に入れて
いるとはとても思えなかったしー。

だから昨年、地域医療貢献加算が導入されたときには
本当にびっくりしてしまった。
どこで誰がどう動いているのか、自分には全く見えないが
時間外対応の重要性は評価されており、
その証拠に制度化されることになったと直感した。
医療には何か大きな地殻変動が起こりつつあるのだ。

さらに、昨年秋の日本小児科学会誌に、
尊敬する小児科医のひとりである西村龍夫先生が、
「小児プライマリーケアにおける抗菌薬の適正使用について
 ―プライマリーケアの治療を考え直そう―」
http://www009.upp.so-net.ne.jp/tatsuo/sho114-09-P1357-1366.pdf
という総説を書いて、私の論文も引用されていたのを知った。
時間外の相談は、小児医療のあり方を見直そうという、
大きなうねりの一環をちゃんと占めているのだ。

自分ひとりだけで孤独にコツコツとやっているだけのようでも
何か大きな力が、それを生かしてくれていると思えるのは嬉しい。
人は決してひとりでは生きていない、と実感する2011年の幕開け。

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2010年10月 4日 (月)

FC東京を生観戦

新響つながりの連中と、国立競技場で初めてサッカーを観戦する。
国立競技場もサッカーの生観戦も初めて。
手入れの行き届いた芝生の緑が美しい。
上のほうから俯瞰して見ているせいか、テレビで見るより狭い感じがする。

FC東京と湘南ベルマーレの試合は、どちらもJ2降格寸前とあって
特にアウェイのベルマーレは応援に力が入っている。
FC東京は大人しいめだが、数では圧倒しているから
観客席はユニホームの青と赤が混在して、すみれ色に見える。
試合は、どうにももたもたしていたが、
ベルマーレ側のゴール近くに陣取っていたおかげで
FC東京の前半2点得点シーンを堪能することができた。
1点目に大黒の足が貢献したかどうかは定かではなかったが、
2点目の平山のアシストによる石川のシュートは美しかった。
ただ欲を言えば、練習どおり、教科書どおりのことをやって
成功しましたって感じで、それ以上のプレーがなかなか
見られなかったのは少し残念ではある。

誰かが書いていたが、前監督の城福氏は理論家だったそうで
でも勝てないままここまで来てしまい、とうとう監督交代、となったそうである。
城福氏の成果が出るのがこれから、ということかもしれないが、
どうも、ここにも日本のサッカーの特徴みたいなものが
現れているんじゃないかという気がする。
サッカーに限らず、医療やビジネスなどさまざまな場面で、
マニュアル教育の弊害ということを耳にすることが多い。
マニュアルを教科書と言い換えてもいいと思うが、
教科書で学んだことを、その通りなぞる傾向というのが
学ぶ側に強すぎるんじゃないだろうか。
あるいは、そういう風に教える側が仕向けているのかもしれない。
教える側の美学が強すぎるのかもしれないが、
それが学ぶ側の自発性や創造力を阻んでいる可能性もありそうである。

試合後の祝勝会でも、似たような話題が出た。
そこでは、横断歩道で信号が変わるまで、じっと待っているようじゃ、
これからの時代は生きていけない、というところで意見の一致を見たのだけれど
これは外国人が驚く事実でもある。実際
「夜中の2時に、全然車が通っていないのに信号が変わるまで
じっと待っている若い男性がいて、日本人って真面目だなあと驚いた」
という旅行者の話を耳にすると、
われわれが知っている以上に、若い世代は真面目(融通が利かない)で
決められた規則は、状況がどうであれ守らなくてはならない
という風に刷り込まれており、状況に応じて自分で考える、
なんて想像もしていないのかもしれないと考えてしまう。
そしてどうもそれが、サッカーで象徴的に
起きているのではないかという感じがするのだ。

ところでFC東京の試合が楽しみだったのは、
今や社長となった村林さんと久しぶりに会えるかもということもあった。
かつて東京ガスがスポンサーの仕事をしていた頃
面白い企画をいろいろ考えては2人で実現させていったものだ。
その後、2人ともガス本体から離れて随分年月が経った。
今回は間に入った友人や彼女のお嬢さん(FC東京勤務)が
いろいろと尽力してくださって、いざとなったら携帯で連絡をとる
ということになっていたのだけど、それは予感したとおり、
携帯の力を借りることなく、あっけなく実現してしまった。
携帯が「すれ違い」という物語を失わせた、
というのも祝勝会で話題になったことだが、
もちろん「すれ違い」がなくなったとすれば、
それは携帯ではなく意志の力による。
「すれ違い」物語を私たちがを愛しむのは、
私たちに、意志の力が及ばないものへの郷愁があるからなんだろう。

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2010年7月14日 (水)

人間という病

ワールドカップが終わった。
日本がベスト16位まで進出したことも嬉しいが
「無敵艦隊」と言われながら、ずっと優勝できなかったスペインが
やっとのことで勝利を勝ち取った、というのがことのほか嬉しい。
スペインのサッカーを見ていると、パスとは相手ではなく
スペースに出すものだと思えてくる。
スペースに出せば、そこへ滑り込んでくるチームメイトがいる
という風に見える。
これができるのは、彼らが常日頃から同じクラブチームで
試合をしており、イキが合っているということが大きいのだろう。
(とオシムも言っていた)
それを支えているのがパスの技術だ。
スペインのサッカーが美しいと言われるのは、
そういうイキの合い方の心地よさとともに、
パスの技術の美しさもあるに違いない。
日本はスペインサッカーを目指しているのかもしれないが、
チームワーク以前のパス技術をもっと上げなければ無理、だとも思う。
これからしばらくは、日本国内ではチームワーク礼賛のオンパレード
になるだろうが(そうやって、個を埋没させるのは日本人の得意技である)
問題はそれ以前にあるんだからね、勘違いしないでね。

1ヶ月の睡眠不足の蓄積を感じながらも
ギンレイに『ハート・ロッカー』がかかったので行くことにする。
『ハート・ロッカー』はアカデミー賞を取ったことで、
早くから観た感想が耳に入ってきたが、あんまり高いものではなかった。
なので、失望するかもしれないけど、もう1本の
『月に囚われた男』が面白そうだから、
ダメだとしても相殺されるだろうと思いながら行く。

あいにく『月に・・・』は最初の15分間に間に合わなかったせいで
肝心の部分を見逃したかもしれないのだが、なかなか面白かった。
タイトルの「囚われた」ということろがミソだと、観終わって分かる。
主人公が精神に異状をきたしてしまったのではないか
(そもそも3年も一人で月に赴任するなんて、できっこない)
と思わせつつ、落としどころはもっと現実的である。
脚本、監督のダンカン・ジョーンズは、あのデビッド・ボウイの
息子だそうだが、この映画で新人監督賞を手にしている。

『ハート・ロッカー』は今年度のアカデミー作品賞受賞作である。
冒頭「戦争は麻薬である」というメッセージが流れる。
これが、この映画のすべてだろう。
死と隣り合わせの極限状態を生き延びるような
過酷な経験を積んでいくと、シリアルだけでも目がくらむような
多くの種類が売られている日常生活の方が
なんだか異常、と思えてくるのは分からなくもない。
「大事なものは、ひとつだけなんだ」と幼い息子につぶやく主人公は、
見方を変えれば「戦争に囚われた男」でもある。

この映画を好戦的と評する向きもあるみたいだが、
私はむしろ、日常に戻ってこれない主人公というものに
向けた監督のまなざしが、共感を獲得したのだろうと思う。
それは反戦か好戦かといえば、もちろん前者なのだが、
それだけではなく、死と隣り合わせであることによってしか
生を感じることのできない人間というものの、ある種の病、
あるいは、どんな環境にも馴染んでしまう可能性がある
人間という病んだ存在、ということなのではないだろうか。

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2010年7月 2日 (金)

あれって本気だったの?

ワールドカップ南アフリカ大会も
いよいよ決勝トーナメントの準々決勝が始まる。
まあ、ブラジルは置いておくとして、
アルゼンチンとスペインがどこまで行くかが目下の関心事である。
巷の予想では、優勝はドイツかブラジルというところだが
ラテン系のサッカーが好きな私としては
ぜひともアルゼンチンかスペインに決勝まで行ってもらいたい。
もちろんウルグアイでもパラグアイでもいいのだけど、
がむしゃらなだけでなく、やぱり美しいサッカーが見たい。
美しいという意味は、驚嘆に値するワザ、という意味である。
でも、そういうのを目指すところは、
たいていもうちょっとのところで負けることになっている。
勝つための策を練る方が強いに決まっているからだ。

日本はベスト4を目指してベスト16で終わった。
私も、決勝トーナメントに行けるとは思っていなかった7割の方だから
初戦のカメルーンに勝った時は心底驚いてしまった。
しかし予選を見る限りでは、FIFAランク19位のカメルーンより
27位のコートジボアールの方がはるかに強かったような気がする。
日本が練習試合でコートジボアールに負けて
予選でカメルーンに勝ったのは当然だったんじゃないだろうか。
FIFAランクもあんまりあてにはならない。

オランダには負けて当然と思っていたので別に何ということもなかったが、
失点を1点で抑えたのは善戦といっていいだろう。
それが自信になったのか、デンマーク戦はなんと3:1で勝った。
これは本当に驚きだった。
デンマークの選手と並ぶと、日本の選手は
ディフェンダーでもやっと肩に届く程度である。
この高さは攻略できないだろうと思っていたら
フリーキックで2点、スルーパスで1点、合計3点も取った。
本田と遠藤のフリーキックが、繰り返し放映されて日本中大騒ぎである。
事前期待が低かったので、私はこれでもう充分だった。

決勝トーナメントで最初に当たるパラグアイは
FIFAランクで31位、日本は45位だから勝ち目はあると思われていた。
ボール支配率を抑えて、ワンチャンスに賭けるんだ、とか
延長戦に持ち込んでPKになったら勝てる、とか
下馬評はうるさかったが、私はパラグアイのガッツには勝てないだろうと思った。
普段からサッカーメールでお喋りしている、仲のいい知人には
「たぶん、ここまでは変に色気を出さずに無心でやってきたはずだから
そのまま戦えれば、延長戦ーPKというのもあるかもね」と書いたら
ほんとうにそうなってしまった。
毎回、後半戦残り20分くらいになると、疲労で動けなくなってしまうのに
このときは、あまりそんな感じはしなかったが、
ただ、どうしてルーズボールを積極的に拾いに行かないのだろう、
疲れているのかなあ、と不思議な感じがした。
PKをはずすとは思っていなかったが、駒野が出てきたときに
「ふけるとしたら、ここだね」と隣で見ていた夫につぶやいたら
ほんとにバーに当ててしまった。
でもまあ、PKなんてくじ引きみたいなものだから、これでいいのである。
ベスト4が現実的な目標だと思った人は皆無だっただろうから
決勝トーナメントに進めただけで充分である。
世界はそんなに甘くない。

ベスト4をめざすという宣言が、本気だったのか、
それとも単に、選手を鼓舞するためのフェイクだったのかはよく分からない。
最初から実力とはちょっとかけ離れたところに、
決して現実的とはいえない目標を設定して、
終わってみたら目標には達しなかったけど、
結構結果はよかった、という展開を狙うという手はある。
このやり方のいいところは、言う方も聞く方も、
阿吽の呼吸で、それを現実的な目標とは思っていないところである。
この宣言は一種の儀式みたいなもので、
達成できないということのカモフラージュとして使われる。
誰も現実的な目標だと思っていないから、責任を追及されることもない。
こんなので戦争に勝てるはずがないのに、
特攻隊に自爆させたというのも、これと同じやり方だろう。
そして誰も責任を追及されなかった。

しかし、もしこのベスト4宣言が本気だったのなら、当然のことながら
なぜ達成できなかったか、敗因が分析されなければならない。
本田が頑張った、駒野もよくやった、勇気をありがとう
(勇樹にもありがとうだけど)、感動をありがとう、
なんていうのでごまかしてもらっちゃ困る。
だいたい、なんでそんなに感動や勇気がありがたいのだろう。
そんなに普段から感動や勇気が欠如した生活をしているのだろうか。
メディアは、政治というと政局、スポーツというとお涙頂戴物語
ばっかり流していないで、少しはしっかり対象を批判してくれなくては困る。
それとも、メシの種になるならサッカーの明日なんて
どうなってもいい、とでも思っているのだろうか。
だとしたら最悪である。

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