2013年10月28日 (月)

なりすまし

ふと思い立ちルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』と
アンソニー・ミンゲラの『リプリー』をTSUTAYAで借りてきて観る。
『太陽が・・』(1960年公開)はすでに見たつもりでいたが
アラン・ドロン(リプリー)がモーリス・ロネ(ディッキー)を刺す場面は
全く記憶になく、今回初めて観たような衝撃を受けた。

人間はさまざまな感情が蓄積されて行動化に至るが、
何がきっかけになるかは誰にも分からない。
論理はもともと後づけだから、説明はあとからならいくらでも可能だが
「今だ!」という瞬間的な判断はむしろ野人のもので
だから監督にはアラン・ドロンが必要だったのだろう。
町山さんによればルネ・クレマンはホモだったそうだが
アラン・ドロンの美しさの中に垣間見える野卑を見抜いたのはさすがである。
ただ、この作品は時代のせいもあってリプリーとディッキーの
ホモセクシュアルな関係はかすかに匂う程度だ。
ここに焦点を当てた淀川さんはさすがだった。

一方1999年公開のアンソニー・ミンゲラ監督による『リプリー』は、
同じ時代を描きながらも、もう少しリプリーの内面を丁寧に描いている。
マット・デイモン演じるリプリーは自分の中にある暗黒を意識し、
かつそれを制御できないことを悩んでいる(ように見える)。
アラン・ドロンが自分の内面を意識しているようには見えず
自分の感情に衝動的に忠実に振る舞ったように見えるのに対し
マット・デイモンのリプリーは、場当たり的とはいえある意味賢く、
自分に対する洞察力もあり、ジュード・ロウ演じるディッキーに対する
ホモセクシュアルな感情も充分意識しながら、
それらとうまく折り合いがつけられなかったために結末に至る。

どちらも生きるということは計算できるようでいてできない、
ということをそれぞれ違う視点から見せてくれる傑作である。

そして面白いのは、どちらも偽装される側より
偽装する側の方を魅力的に描いていることだ。

アラン・ドロンは金持ちのディッキーよりはるかに見栄えがよくスマートである。
若い時のモーリス・ロネも悪くはないが、金持ちらしい魅力はあまりなく
なんとなくふやけた感じさえする。
もっともこれは今観るからそう思うだけかもしれない。
ジュード・ロウはマット・デイモンよりはるかに美しく洗練されていて、
いかにも金持ちのぼんぼんらしさを漂わせて魅力的だが、賢さでは負ける。
成り上がりたいという欲求がない分、空虚なのである。
最後の方で彼も結構問題を孕んでいたことが明かされるが
誰でも見かけと内実は違うものだと言いたげである。

そうだとしたらなりすますことの問題はどこにあるのだろうか。
道徳的な問題は別にして。

たとえば阪急阪神ホテルの偽装。
リッツ・カールトン大阪も系列だとは知らなかった。
リッツ・カールトンのオープンは業界ではちょっとした騒ぎだった。
もちろん騒ぎ自体が偽装だった可能性もあるが
顧客満足度第一、という謳い文句はオープン当時、まだ目新しかったのだ。
そのホテルが、このざまである。

飛びっこをレッドキャビアと称したとか、
ネギの産地をごまかしたとか
安い海老を使ったとか。

安いコストでもそれなりに価値を高める技術があれば
それは一種の商才といえるんじゃないか、と商売に疎い人間は考える。
ミシュランだって見抜けなかったそうじゃないか。
そんなもん一般大衆が見抜けるわけがない。
もちろんミシュランの格付けに権威があるといいたいわけではない。
偽装に共同体を作られたら太刀打ちできないと言いたいだけだ。
出す方だって見抜けるわけがない、と確信しているからやったのだ。
で、お客はその時点ではなんておいしい!とか、さすがカールトンとか思い、
ありがたがって高い対価を払ったのだ。
これのどこが問題なんだろう。
契約違反だというなら、
「レッドキャビアって何の卵なの?」とか
「パナメイ海老のような味がするけど、ほんとに芝エビ?」
とか聞いてみればよかったんじゃないだろうか。
騙される側が、騙されたいから騙されたのである。

なりすましは最終的にばれるのが必然かもしれないが
リプリーにはディッキーへの憧れや自分に対する制御できなさという
止むにやまれぬ切実さがあった。
リッツ・カールトン大阪も、なりすまそうとここまでがんばってきたが
ついにバレてしまったということなのかもしれない。

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2012年7月23日 (月)

遅い成熟

澤口俊之氏の女性セブンの記事
「成長を遅らせることで高度な脳機能をより発達させるとの分析」
は興味深い。
氏はこんな風に述べている。

 子供の成長の早さは、どんな親にとっても気になるものです。
小児科学や発達心理学でも「成長の目安」があり、
最初に歩く年齢(月齢)や最初に言葉を発する年齢(月齢)などが
タイムテーブル化されています。
そして、このタイムテーブルよりも発達が遅いと、
「問題があるかもしれない」と考えられる場合があります。

 ですが実は、人類進化や脳科学からみれば
「子供の成長は、早ければいい!」というワケではありません。
そもそも、人類の成長速度は遅くなる方向に進化してきたのです。
人類に近縁な化石人類・ネアンデルタールと比べても、
現生人類の成長速度は遅くなっています。

 ネアンデルタールと現生人類の遺伝子の違いは
わずか0.5%でしかありませんが、成長速度は、彼らのほうが
私たち現生人類よりも1.5倍も早かったというデータがあります。

 また、彼らは言葉や芸術(絵画)を駆使し、道具も使用していたため、
かなり知能が高かったといえます。
ところが、彼らは2万~3万年前に絶滅してしまいました。
ネアンデルタールよりも学習能力や知能が高かった現生人類に、
生存競争で負けてしまったのです。

 この観点からみると、現生人類においても、
むしろ成長速度が遅いほうがより優れた能力を発揮するようになる
という推論が成り立ちます。
脳レベルでも、進化的に新しくて高度な働きをする脳領域
(特に前頭前野、後部頭頂野、側頭野)の成長は遅いことがわかっています。
前頭前野が成熟するのは25才ごろです。
つまり、現生人類は、成長を遅くさせることで
高度な脳機能をより発達させるように進化してきたといえるのです。

※女性セブン2012年8月2日号
http://news.nifty.com/cs/item/detail/postseven-20120723-130658/1.htm

「成長を遅らせる」というと、成長は人為的に遅らせることができる
という風に聞こえるが、もちろんそうではなくて
成長が遅いことによって脳機能は、よりよく発達する
というのが氏の言いたいことだろう。

現代社会は「遅い」ということを異常に嫌っているのではないか
というのは、ずっと以前から感じていたことである。
「できる」という言葉が、まるで「早い」の代名詞に聞こえることがある。
学校では早熟な子どもが、しばしば高い評価を受けるし
理解が早いこと、反応が早いことが評価の大部分を占めている感じがする。
その結果、それ以外の部分はきちんと評価されないまま子どもは育つ。
そのことがさまざまな問題の根底にあるのではないか。

大津のいじめ問題にしても、この中学校が文部省のモデル校だったと
いうような「大人の事情」を抜きにすれば、
問題がいじめる側にあることは明らかだろう。
加害者のこどもも親も、自分の行動を悪だと認識していたことは、
加害者のひとりがさっさと転校していることからも分かる。
少なくとも、親も含めて自分の行動に問題があると考えているから
それが引き起こすさまざまな影響を想像し、そこから逃れようとしたのだろう。
この首謀者の子は学業は大変優秀だったらしいが、
それ以外の倫理観のような部分は成熟しておらず、
親もそのことをちゃんと認識できていなかったのだと思う。
というか、親も倫理意識は希薄だったと言うことかもしれない。

もちろんいじめはおとなの社会にもふつうにあるから、
大人だからといって必ずしも充分に成熟しているとは限らないが、
こどもの育ちの評価ポイントが、一面的、言い換えれば
成果として早く見える部分でしか評価できていないということが
いじめの根底にあることは確かなような気がする。
道徳教育よりも、何を評価するか、という方が大事だろう。

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