2015年9月 4日 (金)

オリジナリティ?

佐野研二郎さん制作の五輪エンブレムが白紙撤回された。

ツイッター上では、似ているかどうかで判断されたら
自分ではとても検索しきれないから明日は我が身
というような心配をしているようなアーティスト
(歌手、画家、文筆家etc)も多い。


今朝は茂木健一郎さんも「オリジナリティ」について
http://togetter.com/li/869249
ツイートしていた。

オリジナリティというのは「驚き」を
もたらす前代未聞に満ちたものだという意見に異論はない。

でも私はもう少し違った風にも考えている。
まとまっていないかもしれないけれど書いてみよう。
ブログはこういうときに役立つね。

私の好きな映画で『ファム・ファタール』というのがある。
監督はブライアン・デ・パルマ
音楽は坂本龍一

デ・パルマの映画に出てくる女優は官能的で怪しく
女から見ても惚れ惚れするが、ここでもそう。
アントニオ・バンデラスの柄の悪いセクシーさと
妙な一途さと絡まって、より展開を複雑にしている。

坂本龍一の音楽は明らかにラベルのボレロを
下敷きにしており、おそらく監督からそのような
指示があったのだろうと推測させる。

佐野さん風にいえば「パクリ」の指示である。

ではこの音楽にオリジナリティがないか
といえば、私は充分にオリジナリティがあると思う。
デ・パルマと坂本龍一が自分にとっての
好み(ひいき目)であることを差し引いてもだ。
ボレロの単調なリズムが展開の複雑さを
下支えしてこの映画を味わい深くしている。

映画は総合芸術だから音楽は一要素にすぎない
という意見もあるかもしれない。
しかしそれでいえば、エンブレムだって
オリンピックの一要素でしかない。
エンブレムという要素は2020年のオリンピックの
何かを表現する一要素だろう。

佐野さんが白紙撤回せざるを得なかったのは
パクリ疑惑(似ている)からというより
オリンピックの何を表現しているのか
伝える力に乏しい作品だからではないだろうか。
そのことが不明朗な選考過程もあって露呈してしまったのだ。
もちろんこれはどういうオリンピックにしたいか
という主催者の問題意識と意図が明確ではなかった
ことに原因があるけれど、アーティストなら
そこをとことん詰めるべきだっただろう。
その結果パクリであっても納得ができるものを生み出せれば
誰も異論はなかったと思われる。
パクリは敬意の一種でもあるからだ。

表現というのはどんな時代、どんな場に自分が
いるかということの発信行為であり
芸術というのはそれを見せてくれるものだ。

問題はパクリ疑惑なのではなく
アートディレクターとしての力量が
問われたということだろう。

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2013年5月12日 (日)

鑑賞のツボ

小雨の中を川村美術館へ。

「五つの部屋をめぐる鑑賞ワークショップ『彫刻/オブジェ/立体』のツボ」

という美術講演会を聞きに行く。
5月になったら通常通りの活動を開始しようと考えて
1ヶ月ほど前に申し込んでおいたものだ。
彫刻の鑑賞のしかたというのがあるのかどうか
あるとすればどんなものかを知りたいと思ったのである。

道路状況がよかったこともあり早く着きすぎたので
ショップを冷やかしコーヒーを飲みながら開演を待つ。

講師曰く
今は教育界でも先生が一方的に喋るのはご法度、
生徒にいかに喋らせるかがテーマになっている。
サンデル教授の白熱教室みたいなのが理想、とのことで
このワークショップは
まずクジでどの部屋を鑑賞するグループに入るかを決め
その部屋での自分のお気に入りを決めたあと、
同じグループの人同士でグループのお気に入りを決め
それを参加者にプレゼンする、という流れである。
鑑賞のヒントとして、
塊感、日常性、世俗的、重さ、固定感、気持ち悪さ、アンバランス
などの観点が対語とともにチャート化された紙を渡され、
それにプロットすることで自分の感じ方を意識化できるようになっている。
参加者は50名ほどで、我が家のように
友の会会員とその連れ合いという雰囲気の人も結構いる。

私の鑑賞部屋は第五部屋になったので
クレス・オーテンバーグの
「エアーフローのための柔らかいタイヤ」を自分のお気に入りに決める。
グループのお気に入りは多数決で「ユル」
巨大な猫のオブジェである。
癒される感じがするとのこと。
この部屋はタイヤやペンなど日常にあるものを異質な質感で
再構成するというのがテーマになっており、猫もその中のひとつ。

自分のお気に入りとグループのそれが決まった後は
全員でそれぞれの部屋を回り、プレゼンを聞く。
それに講師や学芸員が補足を加えるという趣向。
耳の聞こえが悪く、集中しすぎて疲れたこともあって
終わるころには最悪のコンディションだったが
趣向そのものは、なかなかよかった。
結局彫刻でも特別な鑑賞のしかたがあるわけではなく、
作者がそのテーマで表現したかった新しい視点や
そこに込められた斬新な主張をどう読み解くか、
ということがツボで、しかしそのためにはそれが作られた時代背景や
作者の置かれた立場なども知っておかなければならず、
それは結局すべての芸術作品に共通していることでもある。

講師の
気持ちが悪いから嫌、などという気持ちも大事。
複雑な内容を持っているものほど奥が深い。
というコメントに納得。
嫌という気持ちも感動(気持ちの動き)の一種だし
キモ可愛いというのは結構高度な鑑賞眼なのだ。

5グループのプレゼンだけではとうていすべてを鑑賞しきれず
体調のいいときに再度来館することにして大雨の中を帰宅。
活動再開もなかなか苦労するものだと分かったのは収穫だったが
それ以上に彫刻や立体の鑑賞のしかたを確認できたこと、
参加型ワークショップが普通に美術界にも広がりつつあるのを
知ることができたのはもっと大きな収穫だった。

生きて行くには多少の無理も必要と考えることにしよう。

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2012年5月15日 (火)

『忘れられた夢の記憶』

「抽象から形態へ」というテーマの展覧会が面白かったので
同じ川村美術館が開催する美術講座を聴講してみることにする。
第1回から3回までは本江邦夫氏の講義である。
テーマは「芸術とただのモノはどこが違うか」

彼の著書「現代美術入門」は-中・高校生のための-、という
副題がついているが、どうしてどうして、内容は高度である。
絵画の究極が○△□だというのは、絵を描いていると分かることだが
具象が分かりやすいと思うのは、そこにすでに名前がついていて
見知っているものが描かれているからである。
それに比べると抽象といわれるものは、
通常はおよそ見たことがないものばかりである。
私たちは、見ることは分かることだと思い込んでいるから
見たこともないものを見せられると、分からないと思ってしまう。
抽象絵画を見ると、見ることイコール分かることではない、
ということがつくづく分かるだろう、という下りは説得力満載である。
そして分からないことが、そんなに腹立たしいことではないことにも気づく。
だって、そもそも世の中なんて分からないことだらけだしー。

絵画はラスコーの壁画にも描かれているように、
ものの形をそのまま写すことから始まった。
人間が外界に対して強く支配的である時、人間はゆとりを持って
外界に感情移入し、目に見える世界をそのまま写し取ろうとする
写実主義になるが、外界が人間に対して支配的であると、人間は
この恐れ(空間恐怖)から逃れようとして反写実的な抽象表現に
駆り立てられる、とヴォリンガーという人は言っているらしい。
たしかに内面を表現しようとすれば、
具体的なモノでは描ききれないだろう。
写真技術がなかった頃は、外界をそっくりそのまま描くことが
絵画の役割だったが、同じものを見ても、人によって
見え方はさまざまであることが分かるようになり、
そこから次第にモノの本質、つまり私たち自身を描くようになっっていった。
デュシャンもウォーホールも、結局のところ
私たちの置かれた時代を表現しているといえる。

ラスコ―よりさらに古い時代のショーヴェ洞窟の壁画も映画になっていて
「世界最古の洞窟壁画3D.忘れられた夢の記憶」(シアターN渋谷)で
古代の芸術家たち(たぶんごく普通の人たちに違いなかったのだろうが)の
たしかな腕前を堪能することができる。
現代の専門家によるさまざまな解釈はともかくとして、
古代人たちが、日常に遭遇する動物たちを嬉々として、
あるいは祈りを込めて描きつづけたことだけは分かる。
古代の人たちは外界に対して支配的であり、
ゆとりを持って写し取ろうとしたということだろうか。
素朴だが幼児とは明らかに異なる洗練された技量を持っており
具象(外界をそのまま写した)というより
抽象(モノの本質)に近いような感じがする。

この映画の監督であるヴェルナー・ヘルツォークのすごいところは、
映画の最後にショーヴェの近くに建てられている原発を持ってきたところだろう。
そこでは原発の排熱を利用して温室を作り、ワニを飼っている。
そして何代も交配を続けるうちに、突然変異による
アルビノ種の白ワニが生まれている。
岸田秀さんは、白人はアルビノなんじゃないかという仮説を
述べていたが、はたしてヘルツォークはそれを意識していたのかどうか。
原発と突然変異を並べて見せたことだけはたしかだと思うが。

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2012年3月 9日 (金)

父を引き継ぐ

雨の中を川村美術館の企画展
『抽象と形態』:何処までも顕れないもの
を観に行く。

われながら、何もこの雨の中を行かなくたって、とも思うが
どこかの男子校の生徒たちも団体で来館しており
雨でも来る人はいるのである。
もっとも彼らは、たまたま今日が雨だっただけだけど。
しかし、わざわざ雨の中を行って、実は大正解だったのである。
佐倉のあのあたりは杉の木が多く、美術館の周辺の杉も
花粉を含んだ花の盛りで枝が重たそうである。
これが晴れの日だったら、ひどい目にあっただろうと思うと
単なる偶然とはいえ、自分の読みの良さにガッツポーズだ。

展示もこれまたなかなかの充実ぶりだった。
解説は極力少なく、絵そのものを見せて
感じてもらうという試みのようで
現代作家の作品の間のところどころにぽつんぽつんと
モネの「睡蓮」やサム・フランシス、ヴォルスなどが展示され
理解を助けるようになっている。

モネが描いた水面は睡蓮があることで水面と分かるが
野沢二郎のそれは、どうも水たまりらしいと思えるだけである。
抽象のいいところは一切の説明がなく、鑑賞する側が
どう感じとるかで、どのようにでも解釈できるところだろう。

五木田智央は
「絵とはなにか?描けば描くほどわからなくなる。
永遠に辿り着けないかもしれない場所へ向かい歩く。
笑いながら歩く」と書いているが、
今回展示されている白と黒の絵は
怪しさに満ちていて非常に印象的である。
これはグリザイユという手法だそうで、
もともとは着色前の下絵制作のための技法だそうだが
こんな黒があるんだ!と思うような
漆黒の闇の中に並んだ歯を見るのは楽しい。
エイリアンとの二人連れか?と思わせる絵には
「誘拐」というタイトルがつけられており、
これまたどこまでも怪しく事件性満載である。
そういえば出発点として展示されていた
ピカソの「シルヴェット」も、どこか怪しげではあった。

フランシス真悟の作品の傍には、私が好きなサム・フランシスの
「無題」がかかっており、同じ名前って、どういう偶然?と
思いつつベンチに置いてある図録を読んでみたら、
サム・フランシスの息子だということが分かった。
サム・フランシスは日本人と結婚していたのか!とちょっと驚く。
ネットによれば、2度目の結婚は日本人としており
http://allabout.co.jp/Ad/202187/1/product/202187_3.htm
出光興産の出光氏が生涯のスポンサーだったそうである。
まるで自然の木々のような彼の絵は、彼が植物学を
専攻したこととも関係あるのかもしれないが、
彼が感じとっていた自然の本質を
こちらも感じとっていたのだと思うと、なんだか妙に嬉しい。
息子の仕事は父親を髣髴とさせるが
父親は息子の仕事を見ることができたのだろうか。

そういえば、もうすぐ読み終わる「終身刑の死角」の著者
河合幹雄氏は河合準雄氏のご子息だそうである。
文章のうまさも、人間の掘り下げ方もお父さん譲りである。
息子がこんな風に自分の仕事を引き継いでくれるとしたら
父親にとっては本望なんじゃないだろうかと思ったりする。

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2011年9月17日 (土)

残酷な芝居

先週末は藤沢にある遊行寺というお寺へ
遊行寺かぶき「さんせう太夫」を観に行った。
案内が回って来たときには遊行寺にも、
かぶきにもいくらか興味を惹かれたが
寺まで駅から歩いて15分と聞いて
「このくそ暑いときに15分も歩くのは無理」
とだんまりを決め込むことにした。
そこへ「枯れ木が足りないから、駅からタクシーで参加しろ」
という要請が来たので、海を越えて賑わいに貢献することにしたのだ。

数日前までは涼しい日が続いていたが、
当日は再び夏がぶり返したような暑さ。
毎年参加している人に言わせると、これも例年通りで
駅からタクシーは正解である。
境内はいくらか涼しい風が吹いているが
芝居がおこなわれる本堂は扇風機もなく、
畳で足を延ばせる気ままさはあるものの
「3時間の芝居」という前口上に、いささかたじろぐ。

お寺の本堂でおこなわれる「かぶき」という触れ込みから
こちらは相当にアヴァンギャルドな形式を期待したが、
ふつうの劇場芝居と変わらず拍子抜けする。
話はほとんど鴎外の「山椒大夫」そのままに展開し
途中10分の休憩を挟んで、終わったときには
辺りはすっかり暗く、こちらはすっかり疲れていた。

それにしても中世という時代はなんて残酷な時代なんだろう。
もっとも近代だって残酷さが減っているわけではなく、
残酷さを隠すのがうまくなっただけだが、
中世の生々しい残酷さ目の当たりにすると、
なんだか自分の奥底を見せつけられるようで、
やっぱりちょっと目をそむけたくなる。

鴎外が、なぜ「山椒大夫」という題名そのままにリライトしたか
「安寿と厨子王」の物語からはその辺はなかなか理解しがたいが、

「さんせう太夫」が語る世界は、こうした下人の境遇である。

説経の中で語られる世界は、きわめて宗教性の強いものであった。
しかしそれは整然とした教義を説くようなものではなく、
救いや再生といった民衆の願いに直接うったえる、情念的な世界であった。
http://blog.hix05.com/blog/2006/12/post_48.html

というネット上の解説などを読むと、説経節というこれらの物語は
当時の下層の人たちの思いを掬い上げる役割を担っており
鴎外の物語が親子や姉弟の情に焦点を当てて、いささか説教くさいのは、
これもまた当時の時代の要請によるものだったのだろうと想像がつく。
中世の説経節は、下人たちの境遇ややり場のない感情を
代弁するものだったという点では、今でいうやくざ映画と
似たようなものだと考えればよいのかもしれない。

それにしても、寺の本堂を使って終盤に一瞬の
自然光と風を取り込むという演出は、
演出家冥利にはつきるのかもしれないが
それまでの3時間近くを風も通らない蒸し暑い暗い中で
延々と付き合わされる観客の立場はどうなっているのだろう。
中世の残酷さを身を持って味わうということでは
それなりのリアリティがあったというべきかもしれないが。

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2011年6月29日 (水)

アンフォルメル

午前中しか空き時間がないといったって、
お中元を送るのだけに銀座へ行くのはなんだかもったいない、
と思っていたら、タイミングよく日経の朝刊に記事が出て、
ブリジストン美術館で
-20世紀フランス絵画の挑戦-『アンフォルメルとは何か?』を
やっているのを思い出した。
前から観ようと思っていたのだが、すっかり忘れていたのだ。
そしてこれが久々に充実した展覧会だった。

いつもなら好きな絵だけ集中して見て、
あとはさーっと流してしまうのだけど
この展覧会では、まずどうやって抽象が生まれたかを
マネの『オペラ座の仮装舞踏会』や
モローの『化粧』から解説して見せてくれる。
これがなかなかよかった。
さらに要所要所の絵に解説がついているので、
それを読みながら進んでいくと、自然に
アンフォルメル(不定形芸術)がつかめるようになっている。

グラン・ロベール仏語大辞典によれば、アンフォルメルとは
「再現することを拒否する芸術、あるいは認識でき、
分類できる形態を描写することを拒否する芸術」だそうである。

第二次大戦後、人間の自己表現が問い直されたときに
写実的あるいは造形的な表現に頼らず、自己を画面に
そのまま定着させる表現を試みる抽象絵画が生まれた。
結果としての作品の形状が「不定形」であることから
これがアンフォルメルと呼ばれることになった、ということらしい。

興味深かったのは、アンフォルメル(Informel)は
おそらく英語のinformalと同義と思われることである。
先日読んだインフォーマルケアについての論文では、
インフォーマルケアを非専門家によるケアと説明はしても
「形式ばらない」という風な説明はなかった。
非専門家による、というだけでなく、もっと本質的な部分、
つまり非再現性、とか、形式にとらわれないという部分で
インフォーマルケアを考えた方が、フォーマルケアを
担っている人たちにとってもプラスだし
理解もしやすいんじゃないだろうか、これは今日のヒットだな
などと考えつつ先へ進む。
最近では医療をアートだと言う人もいるが、
アートの本質的なところがどの程度理解されているかは疑問だ。

などと、鑑賞に集中していたら、
「ちょっとすみません」と声をかけられる。
ぎょっとして振り向くと若い女性が立っている。
この間声をかけられたのは、国立近代美術館で
クレー展を観ているときだった。(展示係の若い女性だった)
メモを取りながら歩いていたら、ボールペンは禁じられているので
これを使えと鉛筆を渡されたのだ。
ちょっとムッとしたので、「いえ、もうメモは取りません」と
言おうかと思ったのだが、まだ取るかも、と思い直して受け取った。
なので、一瞬また何か文句が、と身構える。
「香水をつけていらっしゃいますよね」
思わず、え?ひょっとして匂いがきついとか?と引きそうになる。
「はい。(それがなにか?と言えない所が天性の気の弱さだ)」
「あんまりいい匂いだったので、なんていう香水かと思って」

香水は好きでいろいろ持っているが、匂いが気に入っていればいいので
ブランドや品名は、ほとんど気にしたことがない。
今日のはたしかブルガリだが名前はなんだったか・・・。
「たしかブルガリの、こういう四角い薄いブルーの・・です」
自分がつけている匂いは、自分じゃほとんど分からないから
褒められても実感がない。ほとんど「いわれなき」って感じだ。

これですっかり緊張の糸が緩んでしまい、
集中を取り戻すのに時間がかかってしまったが、気を取り直して
ヴォルス、マチウなどに比べるとサム・フランシスはおとなしいなあ
などと思いながらやっと最後まで辿りつく。
最後の部屋にはザオ・ウーキーが結構あって、
そういえば以前ここへ来たのは、ウーキーを観るためだったと思い出す。
ウーキーは観ていると風景が浮かんできて、相変わらず好きである。

なんだかんだで、すっかりおなかが空いてしまったので
「ジョルジェット」で1日30食限定、というサンドイッチをトライ。
中身は8種類、デザートもついてコーヒーのお替りもできるお得なランチだ。
フレスコの模造画が見渡せる中央の席に案内してもらったので
テーブルの上の説明書きを読んでいたら、フレスコ画とは
漆喰が乾かないうちに顔料で絵を描く「新鮮な」という意味の
手法のことだそうで、フレッシュと語源が同じだと書いてあった。

実にアンフォルメルな1日であった。

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2011年4月16日 (土)

そうだったのか!

「ハリウッド映画で学べる現代思想」というサブタイトルに惹かれて
『映画の構造分析』内田樹著(文庫本)を購入。
著者がどこかで「ややこしい部分は飛ばしてもいいけど、第三章の
「アメリカン・ミソジニー」だけは読んでね」と書いていた気がするが
どの章もたいそう面白かった。

映画の本質は見る人によって異なる感想を抱かせるところにある。
私たちは国語の授業などで、作者の意図は?なんていう風に考える習慣が
ついているので、映画の場合も、つい監督の言いたかったことは何だったのか、
などと考えがちだが、これは実に一神教的な考え方だ。
著者やバルトが言っているように、
映画というのは「映画についての解釈」を込みで売られている商品である
という考え方は、私のような電話相談の仕事をしている人間には
たいそう分かりやすいが、一般的にはこういう考え方は
まだまだ浸透していないと言ったほうがいいだろう。
ただ、つい最近まで「解釈の多様性」なんて、特に科学の分野でも
ほとんど顧みられることはなかったけれど、
質的研究などに光が当たり始めたところを見ると、
時代もだんだんそうなりつつあるといっていいのかもしれない。

そうした前提を踏まえた上で、何が前景化(作者が意図的に発信)していて、
何が背後に沈んでいるか(これを著者は鈍い意味と呼んでいる)を
見つけていくのが、映画の楽しさだが、もちろんそれだって
私たちに解釈の可能性を示してくれるだけで、
確定的な答えをくれるわけじゃない。

バルトはこの「鈍い意味」のうちに一種の開放性と生産性を見た、のだそうで
エンドマークへ向かって直線的に収斂してゆく中央集権的、予定調和的、
中枢的な物語の中に混ざり混み、それを挫折させようとする「反ー物語」の力、
脱ー中心的、非中枢的な力を、バルトはあえて「映画的なもの」と名づけた。
すごいね。バルトって。

今まで、観ていてよく意味が分からない映画は、ほとんどお手上げ状態で
そのままスルーしていた感じがするが、そういうときの楽しみ方を
ここで教えてもらった気がする。

何が表現されていて、何が表現されていないか
ってことを考えながら観るのも映画鑑賞上では必須だけど
ここでは西部劇が例に挙げられている。
南北戦争後の開拓時代の西部には5000人の黒人のカウボーイがいたが
西部劇に黒人のカウボーイが出てくるのは1985年頃だそうである。
そういえば1960年制作の『アラモ』にも、黒人の召使はいたが
黒人のカウボーイはいなかった。
2004年のリメイクはどうだろうと興味がわく。
表現されていないことから、その時代に伏流している社会的感受性を
くみ取るというのは、逆システム学的映画の楽しみ方といったらいいだろうか。
ただ、この辺になってくると、だれにでも可能ってわけでもないかもしれない。
他人の無意識は、ほとんどダダ漏れで見えるものだが、
自分の無意識を意識化するのは非常に難しいからだ。

とまあ、こんな感じで実に刺激的な言論が展開されている。
そして待望の第三章「アメリカン・ミソジニー」は
「アメリカの男はアメリカの女が嫌いである」という一文から始まる。
う~ん、やっぱりそうだったか、と思うことしきりである。

アメリカ映画(テレビもそうかもしれないが)に出てくる女の人は、
どうしてみんな非常時になると泣き喚き、オロオロするしか能がない
ようなタイプばっかりなんだろうと、ずっと不思議だった。
一番最初にそう感じたのは『わらの犬』だったかもしれない。
ダスティン・ホフマン演じる夫の妻が、ずばりこのタイプだったのである。
それ以後、同じタイプを見るにつけ、アメリカの女の人のほとんどは、
いざとなるとこんな風にしか振る舞えないのか、ととても不思議だった。
で、こういう(一見)弱い性のために、レディファーストという習慣が定着したのか
とつじつまを合わせていたのだけど、レディーファーストといって女性を大事にし、
しかし一方で、アホな女性ばかりを並べるというところに、ずっと違和感があった。
それがミソジニー(女嫌い)という言葉で一気に視界が開けたのである。
ただ、なぜそれほどアメリカの男性が女嫌いなのかは、よく分からない。
その起源が、男と女の比率からもたらされたというところは同意できるが
「選ばれなかった男たちのトラウマ」を癒すのは「選ばれた男の不幸」
ではなく「選んだ女の不幸」である、というのはアメリカ特有というより
そもそも男という生き物はもともとホモっ気があって、
何かにつけて群れたがる(男たちの共同体の原初の秩序を回復させたがる)
ところがあるからなんじゃないだろうか。
だとすると、なぜ男にはホモっ気があるのか、私にはそちらの方が気になるが
アメリカがカップル社会なのは、案外このホモっ気を抑圧しているからかもしれない
と考えると、話は俄然面白くなってくるのである。

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