2017年1月 4日 (水)

酉年の幕開け

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昨年12月の定期検診の翌日から
背中がバリバリになって起き上がれなくなり
年内のバレエもかっぽれもレッスンに行けず、
おまけに夫が作ったしめサバに当たるという
前代未聞の事件にも巻き込まれて散々な年末だった。

ちなみにこのしめサバは近来になくめちゃ旨かった。
我が家のしめサバは吉兆風で酢〆時間は5分。
今まではこれでまったく問題がなかったが
今回は夫の判断に問題があったのだ。
「危ないものほど旨い」のである。

検診でのMRIの結果はまったく問題なく、
担当医には
「広野さんは若く見えるけど、経過観察は年齢相応の長さでいいよね」
と言われてウキウキしたのもつかの間、
外見と内実はあまり関係がないことも自覚した。

背中バリバリをなんとかなだめながら
年内最後の小児救急の社会的サポート委員会に出席。
昨年企画立案し、ようやく実施にこぎつけた
#8000の47都道府県調査については
何とか大まかな結果を示すことができた。
あとは今年度内に論文化できればいい。
たぶん私の最後の仕事になるだろうが
結構面白いものになる予感がする。

そんなわけで大晦日はおとなしく
DVDの『フォロー・ミー』を再見し
ミア・ファローの魅力を再認識。
正月にはディペックスの宿題もなんとかこなした。

会員になっている某美術館から
頼んだはずのカレンダーが年内に届かなかったので、
年明けの仕事始めを待って再度連絡する。
先方の
「申し込みがされていない」という言葉に、
「でも申し込みの控えがある」と堂々と反論し
結局送ってもらうことになった。

ところがこれが全く自分の勘違いだったのだ。
私が持っていた控えはよく見たら一昨年のもので
未開封の郵便物を確かめたら、
たしかに申し込みをしていなかった。
毎年欠かさず申し込みをしていたから
今年の分も当然申し込んだものと思い込んでいたらしい。
夏ごろは体調も芳しくなく郵便物を開封していなかったことも
すっかり忘れていたのだろう。

うーむ。

申し込みをしていなかったのに、申し込んだとばかり
思い込んでいたのもショックだが、一昨年の控えを
昨年のものと勘違いしたのもショックだ。
背中バリバリよりこっちの方がよほどショックだ。

ウソをつかないのが自分の長所のはずだったのに
この一件のおかげであっさり裏切られてしまった。
年をとるとは未知の自分に出会うことだとつくづく思う。
騙す気がなくても相手を騙してしまうのは
自分が自分に騙されているからだろう。
これをボケと言うのだろうが
まったくオレオレ詐欺がよく理解できる。

世の中はウソがまかり通っているなんて嘆きたくなる
昨今だけれど、自分だって似たようなものだと思えば、
そんなに悲観することもないかもしれない。

ミア・ファローが出ている『僕らのミライへ逆回転』を
観ながら、人間の習性に感じ入る2017年。

今年もよろしくお願いいたします。


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2015年12月 5日 (土)

欲望、このはかないもの

ウェブ上の宣伝は普段ほとんど見ないのだけど
たまたま目に入ってきた某老舗デパートの
「送料無料」という宣伝が目について
同社のネットショッピングのページを覗いてみた。
このデパートは交通の便がいいので時々立ち寄っている。

美味しそうな食品がたくさんある。
販売店の名前も知らないところばかりだ。
送料無料ではないが、ちょっと美味しそうな
チョコレートがあったので試しに買ってみることにした。
関西のチョコレートメーカーみたいだ。

会員登録をしないと買えないとのことで、まず登録。
最近は会員登録しなくても買い物できるところが
ほとんどだが、さすが老舗、
顧客の囲い込み意識が少々古めかしい。
携帯電話番号の入力で少し滞ったが、
イエ電は入力したのだからと携帯番号の入力は拒否し
これはなんとか受け入れられて無事登録できた。

ところが決済の段になって、このデパートの
クレジットカードじゃないと注文できないと分かる。
もう、お財布に入りきらないほどカードがあるのに
これ以上カードを増やすなんてゴメンだと
コンビニ決済があるみたいなので、そちらを選ぶ。
コンビニは近いから、払い込みは楽だし。
しかし、どうやら先払いらしい。
お客は信用できないが、自分のことは信用しろと?
そういうのは気に入らないので、注文はキャンセルすることにした。
期日までに払わなければ自動的にキャンセルになるらしいから
それで結構である。

美味しいものには目がないが
システムの面倒さを乗り越えてまで手に入れたいわけではない。
送料を若干安くするから自社のクレジットカードを
使えなんて、みみっちいと思わないのだろうか。
別のネットショッピングで同じものがもっと楽に注文できるのに。

顧客が何を得だと思うかはまちまちだから
売り手としてはどこに焦点を合わせるか難しいのは分かる。
でも中高年相手の場合、面倒なのはまずダメだ。
ブランドが通用するという意識も捨てた方がよい。
ブランド威力なんて、時と場合と相手によって使い分けるもので
ただの共同幻想だってことはみんな承知している。
そして共同幻想が崩れつつあるのが現代なのだ。
そういう事実をこの老舗は理解できていないのね、きっと。

もうすぐ90歳になろうとする叔母たちの世代は
デパートへ行くことが楽しみでありステイタスでもあったらしい。
でも環境の変化に伴って人の意識も変わる。
デパートは自分のプライドを満足させる場所ではなく
自分のセンスを刺激し満足させてくれる場所だろう。
もちろん必要なものを提供してくれる場所でもあるが
その必要性の強さは時と場合に左右される。
欲望は、今やそんなはかないものになりつつあるのだ。

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2014年3月21日 (金)

ベビーシッターという相互援助活動

シングルマザーの息子が、ネットを通じて依頼したベビーシッターのせいで
死亡したした事件は、いろいろなことを考えさせる。

http://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/baby-sitter-net_b_4997919.html?&ncid=tweetlnkushpmg00000067

論調の多くは今のところ、ベビーシッターを必要とする側のニーズに対応できる
多様性が受ける側になかった、ということを問題にしているようだ。

ネットというシステムが身近であればあるほど、その危険性も熟知されている
と考えがちだが、便利とリスクは案外セットでは考えられていないのかもしれない。
見も知らない人をどこまで信頼するか、ということはたしかに問題としてあるが
誰かも指摘していたように、会ったこともない人に財産を預け、
会ったこともない人からモノを買い、会ったこともない人と
メールのやり取りや議論をするというのは
私たちの社会では、もはやデフォルトである。
そこでは規模の大きさとか社会的に認知された資格とかが
信頼の裏付けにされているように見えるが、
人はウソをつく、という誰でも知っているはずの事実は案外忘れられている。
つまりリスクを踏まえた上で、リスクのもたらすマイナスより
プラスの方が大きいからよしとする、というような合理的な判断は
案外一般的じゃないということなのだろう。

たとえば店での買い物とネットでの買い物では、
明らかに判断基準が異なることは、誰でも経験するが
それは自分というものが多面的だからだ。
でも多くの人はまだそのことに慣れていないから、
しばしば判断を間違えて後から考えると信じられないようなものを
買ったりだまされたりする。
ネット社会によって、そうした多面性に向き合えるようになったのは
ネット社会がもたらした恩恵といってもいいのかもしれない。

だから、このシングルマザーが便利さのあまり判断を間違えたとしても
それを責めるのは筋違で、ただただ不運だったというしかない。

東京の杉並区かどこかの区議は、
こどもを預けること自体が問題というようなことをブログに書いていた。
人の価値観はさまざまだから、この区議が何を書くのも自由だが
政治に携わっている割には人の生活実態を知らな過ぎるという意味では
この人は顔を洗って出直したほうがいいだろう。
人は大昔から自分のこどもを他人にゆだねながら生きてきたのであって
そんな人間の営みも知らないまま政治にかかわっているとしたら
彼に政治家の資質はないし、税金を払う方こそいい迷惑である。

ニーズという観点からいえば、シングルマザーの増加の兆しは
電話相談では30年以上前から感知していたし、シングルマザーが増えれば
ベビーシッターニーズがどう多様化するかも予測できたはずである。
社員の非正規化には働くニーズの多様化を理由として挙げるのなら
どの分野でもニーズが多様化していくことは感知されていただろう。
要するに他人事だから見ないふりをしていただけのことなのだ。

私が上の娘を保育園に入れるまでの間(70年末から80年にかけて)も
ベビーシッター探しは大変だった。
まだベビーシッターがビジネスとしては確立されていなかった時代だったから
自分で動いて手立てを探すしかなかった。
よくあることだが身内も役には立たなかった。
世代間で価値観が異なったから無視されたのである。
無認可のベビールームというのは当時もあって、
それは駅の近くで便利そうだったが、
ビルの上の方では保育環境としては疑問だったし
近所の個人のお宅は、預かるリスクの方を重視して
こちらの切実さには応えてもらえなかった。
(何かあった時に近隣ではいられなくなるという懸念が先立ったのだ)
行政の提供してくれる保育ママさんは適性など審査しないから
必ずしも相性がいいわけもなく、最終的に
歩いて行けるがちょっと離れたところの、若い既婚女性に
預けることができたのはラッキーだったとしかいいようがない。
彼女にとっては自分のこどもを持つまでの予行練習、
私にとっては初めてのこどもを預ける予行練習ができた。
費用は完全に持ち出しだったが、それでもしたい仕事だったから
経済的なマイナスには納得していた。

この事件をネットというマッチングシステムの問題と考える人も
いるようだが、そこでは預ける側と預かる側の適切なマッチングとは
どういうものか、という視点は抜け落ちているように思う。
金さえ払えばなんでも商売になるいう風潮は、それなりに
ドライで心地よいけれども、こどもという生き物がかかわる仕事では
金銭的なメリットだけでない何かを考えていく必要もあるのではないだろうか。
なぜなら、こどもは「今」だけを生きているわけではなく、
未来へ続いていく希望のようなものでもあるからだ。
その意味で、この事件では資格とかレベルとは別の
預かる側の問題というのが気になる。
もちろんそれは男性という性とは関係がない。

こどもを金になるモノのように考えていて、それを誰も制御
できなかった(親は向いていないのではと言っていたらしい)
という意味では、障碍を売り物にして音楽家を騙っていた人との
類似性を感じてしまうのだ。

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2013年12月 3日 (火)

確信

今年の正月、突然のアクシデントでご迷惑をおかけした
クライアントへ、お詫びとしてシュトーレンを送ることにする。
これは毎年お歳暮として送っていたもので、
契約を終了した今は、もう送る必要はないのだが、
ずっと喜んでいただいていたので、最後のご挨拶として
お詫びの気持ちを込めて送ることにしたのである。

個別に送るより単価が驚くほど安いので
例年はまとまった数量が入っているパックをまとめ買いし、
自分で小分けにして宅急便で送っていたのだが、
今年は送り先が減ったので数量の少ないパックに変えたところ、
包装が省略された状態で来てしまい、ちょっと慌てた。
今まで少ないパックは買ったことがなかったので分からなかったのだ。
パックの数量によって個別包装されたりされなかったりする理由は不明なので、
単にメーカー側のコスト削減とタイミングが合っただけなのかもしれない。
なので、以前使った透明な包装紙が残っていたのを思い出し
今回はそれで包んで送ることにした。
透明な包装紙だと可愛らしい箱がそのまま見えるのもいい。

包装作業をしながらいろいろ思い出すことがあった。
初めてシュトーレンを送ったときは、すでに個別包装された物を
そのまま宅急便で送るのもなぜかちょっと気が引けて、
もう1枚何かで包んだほうがいいかもと透明な包装紙を購入したのだが
つるつる滑るこの紙で包むのはなかなか大変な作業で、
その頃からめまいや疲れもひどく、ちっともうまく包めない
ことにも腹が立ち、最後はやけくそになって
もう、どう思われてもいいや、と諦め
下手な包み方のまま発送してしまったこともあった。

メーカーがサービスで添付してくれる封筒に入ったカードを
どうやって同梱するかとか、カードに一筆書くかどうか
といった些細なことでも毎年試行錯誤していた。
カードは大きくて、しっかり包装された中には後から挿入できず、
だからといってカードを箱の上側に貼り付けると、
宅急便の宛先を裏に貼らねばならず
箱をひっくり返さなくてはならないのも違和感があった。

今から考えると、上手く包めなかったのも、いいアイデアが出なかったのも
疲れのせいか、あるいは腫瘍のせいで一時的に
認知がおかしかったのかもしれないと思うが、
最終的に箱の上面に一筆書いたカードを入れた封筒を貼り
透明な包装紙で包んで送るという形に
落ち着くまでの道のりといったら!

今年は箱にカードをじか付けし、透明な包装紙で包んでコンビニに持って行った。
親しい店員は「このまま送っていいの?!」と違和感たっぷりだったが
宛先を下側に貼る必要もなく、天地を逆さにしないように、
というシールも貼ってもらって無事発送できた。

そんな経過を思い出しながら確信を得たのは
人は決して他者の内心を理解できない、ということである。

こんな些細なことはほとんど誰にも話さないから
人がどのような苦労の末に、日常生活で何かを決め、結論を得ているかなんて
普通は誰にも分からないだろう。
まして自分にだって、あのときどうしてあんなにいろいろ考えても
すぐにいい結論に辿り着けず試行錯誤を繰り返したのか
なんて分からないのである(単にバカだっただけかもしれないが)

小児救急電話相談員の研修をやっていて、違和感があるのはここである。
彼らは他者の内心は努力すれば理解できるという前提に立っているから
言語を使えば理解可能だと考える。
早い話が、何でも言語化できると考えているのだ。
もちろん問題は「症状」だけを問題にしているからだが、
ここに模擬患者によるロールプレイの限界もある。
でも、これは研修する側にもまだちゃんと理解できていない。
そもそも対面のコミュニケーションだって
言語以外の情報収集に頼っているのに
そのことは意識化されていないから、電話ではこの問題はさらに見えなくなる。
これは論文には書いたけれど、どのくらい医療者に理解されただろうか。

来年の#8000北海道の研修で、どこから入ればいいか分かった。

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2013年9月12日 (木)

オリンピックがもたらしてくれるもの

2020年オリンピック開催は東京に決まった。
個人的にはイスタンブールに取らせて
世界の富を平準化したかったが、
日本もデフレに苦しんでいるこの際、オリンピックが来ることで
福島の復興が進む可能性に賭けたいという気持ちを許してもらおう。

生涯に2度も生でオリンピックを経験できるという以上に
こどもたちに生オリンピックを経験させてやれることが素直に嬉しい。
64年のオリンピックの時私は中学生だった。
この時代はあとから振り返って「貧しかった日本」とか言われる時代だが、
渦中にいた者としては、特別貧しいとは感じていなかった。
ただ日々の食べ物に困るということはなかったけれど
個人的にはいろいろと過酷なことを経験していた時代で、
それが貧しさによってもたらされたものなのか
人間の本性によるものなのか、今も考え続けてはいる。

そんなこともあり、マラソンのアベベと円谷、
長時間の棒高跳び(ハンセン、ラインハルトという名前はもうすっかり忘却)
東洋の魔女と言われた女子バレーボールなどには大興奮だった。
ひとつひとつの競技に感動して新聞を切り抜いたりもしたが
なんといっても圧巻は閉会式だった。
開会式はお行儀のよい行列以外はほとんど記憶にないが、
(それさえも映像でやっと思い出す程度だが)
閉会式に各国の選手が肩を組み、あるいは手に旗を持って
てんでんばらばらに、楽しそうに嬉しそうに入場してきた光景には、
ほんとに度肝を抜かれてしまった。
瞬間的に、ああこれがオリンピックだと思えた。
国や人種を超えての交歓。これがオリンピックの本来の姿なのだと。

現代風に考えると誰の演出?などと考えてしまいそうだが、
当時はこれはどうやらほんとうに、
係り員が選手たちを制止できなかった結果らしかった。
(NHKのアナウンサーはしきりにそう言っていた)
なんでも言われた通りにしなくてもいいんだ!という感覚も
このとき強烈に意識づけられたように思う。
メダルを取るか否かではなく、大事なのは主体であるという意識なんだと。

情報化が進んだ今では、こんな素朴な話はおとぎ話に聞こえるだろう。
若い世代は私たち世代より国家意識が強く、しかし
同時に国境を超えた世界市民意識も強そうに見える。
9.11後のイラク爆撃が解決になると考えた人は少なかったはずだが
私たちは情報戦に負け、時として世界は不本意に動くものであり、
平和を実現するのも一筋縄ではいかないことを痛感したのだ。
(もちろん、ベトナム以後ずっとそうだが、情報戦を痛感したのはイラクが大きい)
シリアへの爆撃を主張するオバマへの反対が多いのはその成果だ。
政治家は一般市民を危険にさらさない方法を考えるのが仕事であって
大統領のメンツなんかで動いてほしくない、というのが一般人の本音だろう。

7年後のオリンピックは、こうした世界市民意識を国境だけでなく
健常者と障害者の間にも敷衍させる機会であってほしい。
私たちはある意味誰もがハンディキャップパーソンなわけで、
健常者と障害者というように言語化して区別するほどの
差は本来的にはないかもしれないからだ。
ぜひ7年後のオリンピックでそれを実証して見せてほしい。

そう考えるとオリンピックが「東京」へ来たのもまんざらではない気分になる。
自分の差別意識をもっとも意識化できていないのが日本人だとも思えるからだ。


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2013年8月 3日 (土)

ごまかしの行方

遅ればせながらツイッターを始めて2ヶ月。
まだ使い方には習熟できていない。

フォローしている人数は20人にも満たないのに、
結構な量の情報が流れてくる。
単なるお知らせもあるが
読みでのある記事が添付されているのも多い。
情報処理能力がたいして高くない私はすでにアップアップである。
じっくり読みたい記事があっても、頭が疲れそうなので
(実際一生懸命読みすぎると頭が痛くなる)
とても追いかけきれない。

みんなこんなに多量の情報をどうやって処理しているのだろう。
適当にスルーするか脊髄反射的に反応するだけなのか。
きっとオタクと言われる人たちは、
こういう情報環境に反旗を翻した人たちなのだろう。
情報の水平処理ではなく垂直処理を得意とする人たち。

ちなみに巷ではオタクをどのように捉えているのか。

「オタクを研究している学生です」
という問い合わせに対する回答が素晴らしい。
#oshietegoo http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6298354.html @oshiete_gooさんから
日本人にはオタク気質がある、という洞察もすてきである。

そんなオタクの人たちに学びながらの最近。

WOWOWで『マーガレット』という映画を録画して見る。
マット・デイモンが出ているという理由だけで録画したのだが
なんでこんなに豪華な俳優陣?という不思議な映画である。

リサ(アンナ・パキン)という高校生のちょっとした振る舞いが
バスの運転手(マーク・ラファロ)にわき見運転での悲惨な事故を起こさせる。
被害者の女性は足をもぎ取られるほどのケガを負って死ぬ。
現場に居合わせたリサは動揺し、
被害者は赤信号なのに渡ろうとしたと証言して、運転手は無罪放免になる。
運転手を無罪にすることで、自分も(無意識に)罪を免れようとしたのである。
リサの両親は離婚しており、リサは女優である母親と弟と住んでいる。
別居している父親との関係は特別悪くはない。
先生(マット・デイモン)にカンニングを諌められても
うまくごまかす才覚もあり、
ごくありふれたアメリカの高校生生活が描かれる。
しかし時間が経つにつれて死んだ女性のことを考えるようになり、
次第に運転手が無罪になったのはおかしいと思い始める。
なんとか彼を有罪にしなければ、自分の正義が果たせない
と考えるようになって被害者の女性の親友と共に
バス会社に対して訴訟を起こすまでになる。

見ているこちらは「君の正義感は君の罪悪感の裏返しでしょ」と思うが
当の本人にはそういう認識はない(らしい)。
この辺のアンナ・パキンの演技はすごくうまい。
時期が合っていればアカデミー賞確実だったろうという評は同感である。
気がつくと2時間半を超える映画になっている。
ティーンの(よくある)欺瞞がテーマにしてはいかにも長いが
9.11直後のアメリカの欺瞞だとすれば納得である。
2005年に完成したにも関わらず、公開が2011年というのは
その辺の事情も影響しているかもしれない。

人はしばしば自分の罪を相手に投影して、相手を断罪しようとする。
自分を罰したくないので、代わりに相手を責めるのである。
これによって表面的には自分には罪はなく、相手の罪を責めるという
何かいいことをした気分も得られるから一石二鳥である。

いじめや虐待には、こういう要素も多分に含まれているのだろう。

私が知っているある女性(仮にAとする)は妻子ある男性と不倫の末
先妻を追い出す形で結婚した。
先妻と男性との間の生後間もない娘は男性が引き取った。
その後Aとの間にも娘がふたり生まれ、生活は裕福だったが
男性の連れ子に対してはネグレクトという虐待が日常的だった。
Aにとっての先妻の連れ子は、単に結婚生活に邪魔なだけでなく、
罪悪感という、Aがもっとも見たくないものをつきつける存在でもあったから
無視せずにいられなかったのだろう。

多くのいじめで加害者が被害者に向かって
「うざい」とか「死ね」などと言うのも
実は相手の中にうざい自分自身を見ている可能性がある。
それを無きものにしようとして、結果的に相手が亡き者になってしまう。
でもうざい自分は消えていない。
そのことをいじめる側が知るチャンスはあるだろうか。

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2013年7月16日 (火)

記録の効用

「小児保健研究」編集部より
昨年暮れに投稿した
「小児救急電話相談-患者との協働を学ぶ方法-」採択の連絡。
4年ぶりの掲載になるが、あのひどい一次稿を
見捨てなかった査読者に深く感謝。

西條剛史さんの「質的研究とは何か」アドバンス編は
自分がこれまで手探りでやってきた仕事を理論化してくれる
貴重で心強い本だが、その抄読会で、
今まで感じてきた論文の書き方についての疑問が解決でき
プロの研究者も同じようなことを感じながら論文を書いているのだ!
と分かったのは嬉しかった。
たとえば帰納的に得られた結果を論文にするときでも
あたかも仮説検証を目的としたかのように書かなければならず
そこにものすごく違和感があったのだ。

私の仕事は言ってみれば「こんなん出ました」ってタイプのもので
予測不能性、不確実性の極みを証明するようなものだ。
これは通常仮説生成的と言われるが、
そういうことに取り組んだのが早すぎたのか
学際的なために概念化が遅れたからなのか、
時代がまだ追いついていなかったせいもあって、
医療関係の学会誌に書こうとすると、いつも
あたかも最初に仮説があるかのように書くことを求められてきた。
これは研究者にとってはテクニックの範疇なのかもしれないが
私のような一般人には誰もそういうテクニックは教えてくれないから
しぶしぶ自分の違和感をなだめながら今まで適応して書いてきたのである。
だから抄読会で、ある先生の「まず査読者を読者と想定して書くのがコツ」
という意見には目からうろこが3枚くらい落ちた。たしかに!

誰が査読をしているかは通常投稿者には分からないが、
査読は著者名も伏せられておこなわれている、なんていうのも初耳だった。
でもこれは考えてみたら当然のことだ。
著者名が分かれば名前によって手加減するということだってあり得る。
有名人のコンサートを聴きに行ってありがたがるのとはわけが違うのだ。
公平な判断はブラインドでおこなわれてこそ可能ということだろう。

さて

日曜日はディペックスの総会とシンポジウムで東大一条ホールへ。
総会での別府理事長の「ディペックスの活動で医療を変えていきたい」
というコメントに勇気をもらう。理事長、本気でやりましょうね!
電話相談も話し手の語りを捉えるという意味では同型である。
ただ問題はそれを分析する手法が、まだ確立していないことだ。
シンポは認知症の語りウェブページオープンということで、
驚くほど参加者が多く、資料が途中で足りなくなってしまった。
乳がん、前立腺がんとがん患者の語りが続いたが、
今回は認知症という、病気の範疇に入れていいかどうか
微妙なテーマということで、医療というテーマの
幅の広さを感じさせ、イベントという観点からも成功だった。

そして

今日は朝から暑中見舞いの作成。
ネットで見つけたフリーのイラストに、
自分で作成した文面を載せて印刷する。
結構いい仕上がりである。
こんな風に何でも自分でできてしまえば
印刷屋さんが潰れるのも無理はない。
ふだんは暑中見舞いを送ることはないが
今年は年賀状をいただいても返事ができない状態だったので
そういう人だけを選んで送ることにしたのだ。
おかげで暮れから新年にかけて、自分がいかに危なかったかを
改めて振り返ることになってしまった。
「筆ぐるめ」は賢い年賀状ソフトで、誰に何を送付したか
全部記録できるようになっているのだが、
絶対に送っていないはずの人に送付済みの印がついていたりする。
本当に送ったのか、印付けを間違ったのか
厳密には真相は闇の中だが、
あのときどんな風に自分が壊れていたか
という冷厳な事実だけは記録に残っている。
ほんと、渦中にいるときは、人間何も見えていないのだなあ。

自分のためにも、親しい人のためにも記録は大事だ。
渦中から抜け出した時のために。

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2013年5月28日 (火)

顔が見えない

経済が繁栄しても心が豊かじゃなければ幸せになれない
と大合唱していたのは、ついこの間ような気がするが、
あれはどこへ行ってしまったのだろう。
某大阪市長はひたすら墓穴を掘りつづけたいみたいだし、
ほんとうによく分からない毎日が続いている。

以前にアカウントだけ取っておいたツイッターを
遅ればせながら始めることにした。
そんなに言うことがあるとも思えないのでずっとほおっておいたのだが、
サッカーではマンCのユニフォームの色が一番好き、とか
ときどきたわいもないつぶやきシローになりたくなることは確かにある。
でも考えていることを書いて自分を表現するだけなら、
ブログのほかに小児科医のMLもあるし
Medi-waとかMJLなどのSNSもある。
こういう媒体にはない何がツイッターにあるのだろう。
それが知りたいというのが動機といえば動機だ。

何人かをフォローし始めて感じるのは
ツイッターと雑誌はどこが違うのだろうということだ。
ツイッターは基本的に「私はここにいます」的な媒体で
だから奥ゆかしい自分(笑)には向いていない気がするのだろうが
発信する側から考えればそういう媒体の特性はどれも同じともいえる。
新聞や雑誌(TVも)だって一生懸命「私はここ」を主張していて
むしろそれ以外はなさそうなところが気になるくらいだ。
S新聞とA新聞では180度(90度?)違うように見えるが
何を報道しないかという点ではあまり違わなかったりする。
だから受け取る側から見るとどれも同じような「私」に見える。

その点ツイッターはただのつぶやきなのに、
やたらにタイムリーで中身の濃い記事があったりするのだ。
これでは新聞や雑誌が売れなくなるのも無理ないなと思ったりもする。
そもそもタダだしー。
ネットのマガジンにも有料のはあるが、そこにお金を払うかどうかは
自分の無知を補ってくれる内容かどうか、
たまに興味のない記事が混ざっていたとしても、
秤にかけてみてブラスが多いと思えるかどうかにかかっている。
希少価値があるかどうかは重要だ。
タックスヘイブンはイギリスが考案したシステムだなんて
新聞は絶対書かないだろう。
そういう意味では情報もブランド品に似たところがあるが
ブランドのような幻想ではなく、もうちょっと実質的だ。

そんなときに飛び込んできたブラピの「相貌失認かも」ニュース。
相貌失認をテーマにした『フェイシズ』という映画は、
先日WOWOWで放映されたが、もっと面白くなるはずのテーマの割には
意外と凡庸なつくりで、ウィキによれば劇場にはかからなかったそうである。
主演女優(ミラ・ジョヴォヴィッチ)はよかっただけに残念だった。

「顔が見えない」というのは、いっときアイデンティティが不明確であることの
言い換えとして使われていたが、そもそもアイデンティティという概念自体が
揺らぎつつあるのが現代だろう。
ブラピは時代を先取りしているのかもしれない。

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2013年5月10日 (金)

被る理由

4ヶ月ぶりに髪切りに外苑まで。

バスでも歩いても行ける近所のデパートへは
先月からちょくちょく出かけているが
地下鉄を乗り継いでの外出は退院後初めて。
5月になったら、と自分で目標を定めたこともあり
やっとその時が来たという感じだが、
まだ若干弱気が残っているため結構勇気が要る。
頭に負荷がかかって頭痛が起きるとか
立っているのがつらい、などということはなくなったが
もし3.11のようなことがまた起きたら、
今の自分では頑丈に振る舞えない感じがするのだ。
でもまあ、とりあえず。

入院中に看護師さんに念を押された「無理をしないで」
という言葉を思い出しながら、無理をしないというのは
自分を甘やかすということと同じか、違うかなどと
考えながら駅のエスカレーターに乗る。
もちろん右側を歩いて上ったりはしない。

娘に「変」と言われた帽子は
入院など想像もしなかったずっと昔に
気に入って買ったものだが、
ユニークすぎてずっと被る機会がなかった。
それが入院生活のおかげで出番がやってきた。
髪の毛が伸び放題なのでと言い訳をしながら、
どこへ行くにも被って行ったものだが、これも最後かもしれない。
入院という前代未聞の経験のおかげで今まで以上に
人目を気にしないという度胸がついた。
もっともこれも健康人という枠から外れたことによる
疎外感のなせるワザだと言えないこともない。
このあたりは患者経験のある者同士で話し合ってみたいところだ。

予約時間より少し早く着いてしまったので、
ヘアーメイクの近所の和食器の店を冷やかす。
初めて入った店だがさりげなくおしゃれ。
醤油注しの手ごろなのがあったら買いたかったが
食器ほどはユニークじゃなかったので止める。

髪を切ってもらうと気分はほとんど健康人だ。
これで帽子を被る理由が内にも外にもなくなってしまった。

閑話休題

日経ビジネスオンライン(NBO)で小田嶋さんが
「女性手帳というパルプフィクション」というエッセイを書いている。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20130509/247789/?mlt

ずっと気になっていることだが
少子化という問題を解決するためには女性にこどもを生ませるしかない
というのなら、政治家なんていらないんじゃないだろうか。
少子化でも社会がうまく回るように考えるのが政治家の仕事だろうと思うが、
そういうのは斬新すぎて無理ってことなんだろうか。
いつまでも人の褌で相撲をとることばっかり考えてないで。

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2013年4月29日 (月)

『聖書を語る』

入院中はもちろん、退院してからもしばらくは活字を読むのがつらかった。
入院中も短時間とはいえテレビはよく見ていたから
この差は何だろうと考える。
言葉の理解にあるのか、視覚情報の処理なのか。
テレビはつらくなかったのだから、
視覚情報の処理が負担だったわけでもなさそうだ。
もっとも大半はスルーしていたってことかもしれないが・・・。
耳から入る言葉には抵抗はなかったから
言語の処理が問題だったわけでもなさそうだ。
ただテレビ視聴も長時間になると吐き気や頭痛が出てダメだった。

目から入る言葉(活字)の処理では
何か特別な負担が脳にかかっているのだろうか。
しばらくはパソコンを開ける気がしなかったのも興味深いところである。

なので退院後1ヶ月ほど経って、新聞を読んでも頭痛や吐き気に
悩まされなくなったと分かったときは嬉しかった。
何しろ3ヶ月くらいは活字から離れていたわけで
シアワセをひとつ取り戻した感じである。

そんなときに最初に読んだのは『聖書を語る』という
佐藤優さんと中村うさぎさんの対談。
読めるようになった時のためにとアマゾンでレビューを読んで
注文しておいたのだが、これが抜群に面白かった。
佐藤優さんが神学部卒というのは知っていたが、
中村うさぎさんがプロテスタントというのは知らなかった。
中村さんについてはブランド物をやたらに買いあさりながら
週刊誌のコラムを書いている人、という以上は知らなかったのである。

佐藤さんがカルヴァン派で、
だから獄中でもめげなかったという話も驚きだったが、
中村さんの原罪についての解釈も共感するところ大だった。
アダムとイブが楽園を追われたのは自意識を持ったからで
原罪とは自意識のことだというのである。
たしかに、自分たちが裸であることに気づいたというのは
自意識、つまり他者の目の獲得だろうが、
それでエデンの園を追い出されたということは、
キリスト教も大いなる全体の世界を理想としているってことなのか?

私が知っているキリスト教信者から共通して受ける感じは
確固とした意思の強さや、個として際立っているあり方で
むしろ他者とは融合せず、わが道を行くというような
カッコよさだが、本音のところでは
それを罪と感じていたのかもしれないと思うと、ちょっと親近感がわく。

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