2015年9月 4日 (金)

オリジナリティ?

佐野研二郎さん制作の五輪エンブレムが白紙撤回された。

ツイッター上では、似ているかどうかで判断されたら
自分ではとても検索しきれないから明日は我が身
というような心配をしているようなアーティスト
(歌手、画家、文筆家etc)も多い。


今朝は茂木健一郎さんも「オリジナリティ」について
http://togetter.com/li/869249
ツイートしていた。

オリジナリティというのは「驚き」を
もたらす前代未聞に満ちたものだという意見に異論はない。

でも私はもう少し違った風にも考えている。
まとまっていないかもしれないけれど書いてみよう。
ブログはこういうときに役立つね。

私の好きな映画で『ファム・ファタール』というのがある。
監督はブライアン・デ・パルマ
音楽は坂本龍一

デ・パルマの映画に出てくる女優は官能的で怪しく
女から見ても惚れ惚れするが、ここでもそう。
アントニオ・バンデラスの柄の悪いセクシーさと
妙な一途さと絡まって、より展開を複雑にしている。

坂本龍一の音楽は明らかにラベルのボレロを
下敷きにしており、おそらく監督からそのような
指示があったのだろうと推測させる。

佐野さん風にいえば「パクリ」の指示である。

ではこの音楽にオリジナリティがないか
といえば、私は充分にオリジナリティがあると思う。
デ・パルマと坂本龍一が自分にとっての
好み(ひいき目)であることを差し引いてもだ。
ボレロの単調なリズムが展開の複雑さを
下支えしてこの映画を味わい深くしている。

映画は総合芸術だから音楽は一要素にすぎない
という意見もあるかもしれない。
しかしそれでいえば、エンブレムだって
オリンピックの一要素でしかない。
エンブレムという要素は2020年のオリンピックの
何かを表現する一要素だろう。

佐野さんが白紙撤回せざるを得なかったのは
パクリ疑惑(似ている)からというより
オリンピックの何を表現しているのか
伝える力に乏しい作品だからではないだろうか。
そのことが不明朗な選考過程もあって露呈してしまったのだ。
もちろんこれはどういうオリンピックにしたいか
という主催者の問題意識と意図が明確ではなかった
ことに原因があるけれど、アーティストなら
そこをとことん詰めるべきだっただろう。
その結果パクリであっても納得ができるものを生み出せれば
誰も異論はなかったと思われる。
パクリは敬意の一種でもあるからだ。

表現というのはどんな時代、どんな場に自分が
いるかということの発信行為であり
芸術というのはそれを見せてくれるものだ。

問題はパクリ疑惑なのではなく
アートディレクターとしての力量が
問われたということだろう。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年8月25日 (火)

2つの『日本のいちばん長い日』

1967年版(岡本喜八監督作品)については
制作発表についてのうっすらとした記憶がある。
三船敏郎をはじめとして映画俳優総動員という雰囲気だったが、
昭和天皇については誰が演じるのかも明らかではなく、
映画の中でもその姿はほとんど画面に映らない。
それだけ天皇に対するタブーが大きかったのだろう。

終戦に当たって昭和天皇がどのような役割を果たしたのか
本木クンが演じている2015年版(原田眞人監督作品)では
その辺はどう解釈されているのだろうかと
興味がわいたので観に行くことにした。
友人の中には岡本版を絶賛する人もいて
賛否は分かれているようだけど、私はリメイク版も充分楽しんだ。
現代作品らしく場面転換がスピーディで何よりカラーで画質も良い。
岡本版の白黒によるあっと驚くような凄惨な場面は
その分抑えられて表現されている。
ある意味昔の方が過激だったのだな、と思わないでもない。

両方に共通しているのは陸軍の暴走ぶりだが
岡本版は玉音放送に至る1日だけを描いているせいか
彼らの直情的な悲壮感が濃厚に漂っているのに対し
(もちろん観る側からすれば滑稽ではあるのだが)
原田版では描いている期間が長い分、
より客観的で滑稽さが前面に出ている印象がある。
あのニワトリみたいなお辞儀は実際の所作だったのだろうか、
それとも監督の演出なのだろうか。
形だけを守ろうとするとああいうことになるのだよね、と
日本のサッカーが勝てないのも、これだよ、などと関係ないことを考える。

開戦も終戦も天皇の責任によって
おこなわれたはずなのに、
終戦となるとその天皇の意思など簡単に無視されそうになる。
まあ自分たちの組織の存亡がかかっているから
仕方がないのかもしれないが、
組織の命令指示系統がこんなに簡単に無視されるとしたら
日本にはとうてい軍隊などという組織は根づかないのではないか。
命令だから何にも考えずに虐殺にまい進する、というのも困るが
指示系統などいざというときにはあってなきがごとし、
というのも考えものだなあと思う。
人間は舞い上がった後の着地が難しいが、
どういうときにそうなるか、私たちは自分のことも含めて
よーく考えておいた方がよさそうだ。
あれは陸軍だけの問題じゃない。

「国体の護持」が保証されなければポツダム宣言は受け入れ難い
と陸軍は息巻くが、そこでは国民の生活などすっ飛ばされている。
当時は帝国憲法の元でのことだから
国体を「国民の生活を成立させている構造」
と考えた人は誰もいなくて、天皇を頂点とした国のかたち
と考えたとしてもやむを得ないとは思うが、
原田版から伝わってくるのは、
それも表向きの言い訳にすぎないんじゃないかという雰囲気である。
むしろ陸軍は軍部という自分たちの権力構造を
支えるなにがしかを「国体」という都合のいい言葉で
カモフラージュしようとしたのではないだろうか。
こういう「理屈と膏薬はどこにでも貼りつく」事例は
おそらく今も社会の各所で健在のはずだ。

おそらく原田版はそのことを見抜いており
だから滑稽さが前面に出てきたのだろうし
岡本版はそのことを正面から主張するには
まだ躊躇があったので、それが悲壮感となって漂ったのかもしれない。
「日本帝国の葬式」と言いながらも
帝国への郷愁があったといったら厳しすぎるだろうか。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年5月19日 (火)

私たちは、どのくらいバカなのか

アメリカンミソジニーという言葉は内田樹さんの
「映画の構造分析」で知った。
アメリカ人は一見女性を大事にしているように
見えるのに、アメリカ映画はどうして女を「バカ」
としか描かないのだろうというのが
長年の疑問だったがこの本で納得した。

もっとも女性の数が圧倒的に少なかったことが根底にあるとはいえ
直感的には、もともと男には群れたがる習性があり
アメリカンミソジニーは、それを説明するために
考え出された後づけの理屈なんじゃないかとは思う。
なんで男は成人しても群れたがるのか、とか
男と女の群れ方はどこが違うのか、とか
今や興味はそっちへ移りつつある。

アメリカ映画の女嫌いについては
「ハリウッド映画の女性観」小林 憲夫著
─アメリカン・ミソジニーは克服されたか─
などという論考もありネットで読むことができる。
そこでは内田氏の論考は追認されているようだ。

日本の古い世代の男が女の力を認めたくないあまり、
自らを砂上の楼閣に祀り上げて相手を直視しないのと
アメリカのように、女性を固定観念の中に閉じ込めて
見ないようにするのとでは一見違うように見えるけど、
相手を見ないという点では共通している。
つまり対象を見るのが苦手なんだな、男って。
対象を見なくて済むから群れたがるってことなのか。

1996年制作の『ファーゴ』のマージは、
難なくコトの本質を見抜くほど賢いが、これは
賢いというより「見えてしまう」という女の特性かもしれない。
ここではマージは淡々と賢い女として描かれ、
バカなのは男の特権とばかりに
徹底的に男は嗤いのめされる。
でも
これは社会の表面にいるのが圧倒的に男だから
そうなるので、むしろ社会の大多数はバカ
という意味だと考えた方がいいのだろう。
(もちろん私自身も含めて)
マージはここでは妊婦でかつ警察署長という
2つの味わい深い特性を持った存在であり
そこはかとない女性性への賛歌も感じられる。
コーエン兄弟は、なかなかの策士だ。

最近では『ゴーン・ガール』の女性の描き方が面白かった。
エイミーは並みの女にはとても考えつかないような緻密さで、
不誠実な夫に復讐を試みる。
離婚しようという自分の内面は相手には気づかれていない、と
思い込んでいるのは、ノーテンキな当の夫(ベン・アフレックが好演)だけだ。
「結婚とはこういうものなのよ」というセリフが出てくるので
この映画は現代の結婚を描いていると見る向きもあるけど、
ここでは結婚は現代人間社会の力関係を表す隠喩だろう。
「自立は女性にとって不幸せ」(小林憲夫)という観念はいまや古臭くなり
女性は次第に男のだましの手口をも自分のものにして
相手をコントロールし始めているのだ。
相手を感じ取る能力が優れている分、裏をかくのもうまい。
こうした強い女の出現の背景に、
人工授精などの科学技術の発達があることは言うまでもない。
結婚と自立は矛盾する概念ではなくなりつつある。
ただ完璧なエイミーという幻想が重荷になったとすれば
女性にとっての重荷は、実は親なのかもしれないとも思わされる。
相手が視野に入りやすい分、それを消す(親からの自立)のは
実は女性にとって一番の難題なのかもしれない。

『真夜中のゆりかご』という北欧の映画でも、
そのことはほのめかされる。
死んだこどもに固執し、我を失うアナの重荷はどうも親らしい。
現実生活でのだましに男たちが奔走するのは
見えていることへの対処でしかない分底が浅いが
目に見えないものをどう克服するか、は
当人には敵の正体がつかめないだけに難しく深刻でもある。

そもそも自分のこどもが突然死したからといって、
ジャンキーのこどもと取り換えてうまくいくはずなどない
ことは普通に考えればわかる。
こどもは車輪の交換とは違うのだ。
こどもを死なせたことがばれるとやばいとばかりに
誘拐を偽装するジャンキーの男の浅知恵も同じだ。
誰でもショッキングなできごとに直面すると我を失う。
でもそれは日常では当たり前で特段珍しいわけではない。
だからコトの実像が見えてきたとき、
自分の間違いが突然理解でき自分を取り戻すことができる。

ここでは目の前の事実から目を逸らせて、それをやり過ごすことだけに
腐心する男の愚かさと、目を逸らせていても自分にだけは
忠実な女の愚かさが対比的に描かれている。
人間はなぜ自分が愚かなのか、
どう愚かなのか自分ではわからない。
それは男も女も同じだ。
警官だったアンドレアスは子に続いて妻も亡くし、
偽装によって自分のキャリアをも失うが、
その結末を引き受けることで
前に進んで行く力を手に入れる。

最近の北欧発のドラマからは
私たちとはなんなのだろう、私たちはどこへ向かっているのだろう、
という問いかけを受け取ることが多い。
私たちが、どのくらいバカなのかを自覚させられている。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年4月25日 (土)

男と女のファンタジー

同世代の人たちとの交流は話が通じやすく楽しいが
時々あまりの感性の違いに戸惑うこともある。
世代が違う人との感性の違いは当たり前と思えるが
同世代は何となく似ているはずという思い込みが
こちらにあるからだろう。

ギンレイで観た『滝を見に行く』の感想もそうだった。

A氏はこの素人集団がハイキングで見せるおばさんっぽさが
現実の女性を思い出させてとても新鮮でリアルに思えたと言う。
山の中で彼女たちが枯葉の布団にくるまって
奥村チヨの「あなた好みの女になりた~い」と
歌いながら夜を明かすところは、「この歌しかないよな」と
ことのほか気に入ったみたいだった。

私はと言えば、この映画はリアリティ狙いで
作為的に素人を使ったところが見えて感心しなかった。
昼間吐く息が白く見えるような山の中で、
歌を歌いながら夜を明かすというのは、
エピソードとしては面白いかもしれない。

でも

バスハイクに出かけて添乗員とはぐれ、
道に迷ってしまったという軽装で
寒さに震えることもなく楽しく夜を越す、
という設定はどう考えてもウソっぽい。
監督はおそらく山歩きをしたこともあるはずだが、
昼間暖かくても夜は結構冷え込むのが山の天気だ。
女はこれほどまでにたくましく逆境に強い、
と言いたいのかもしれないが、
それならもうちょっと真実味のある設定にしてほしかった
というのが率直な感想だった。

まあ、映画なんだししょせんは作り話なんだから
目くじら立てるほどのこともないのだが、
男のファンタジーから相変わらず抜けられないのだな、
とちょっとがっかりだ。
お互いツアー客という見ず知らずの出会いでも、
助け合い励ましあって事態を乗り切ってしまうのが
女性だと言いたいのは分かる。
でもそれはあまりに日常的な事実なのだ。
同性にとっては当たり前すぎて面白くもなんともない。

だからやせっぽちのりえちゃんが
自分に近づいた若者に何の見通しもなくのめり込み、
プリンターまで購入して公文書を偽造し横領に走る
『紙の月』の方が、なんだかリアルに感じてしまう。
これが女のファンタジーというものなのかもしれない。

もっともこういう女性心理が育った背景については
もう少し丁寧に掘り下げてほしかった。
ウソでも慈善ならOKってところからどうして
抜け出せなかったのか、はこの映画のキモのような気もする。
『ゴーン・ガール』のような女性心理の必然性が描けないのは、
単に日本人の監督に力量がないのか
それとも日本人観客の限界なのか。
芸術を育てるのは観客なのだから。

とはいえ、名門高校から名門私立大学を経て
一流企業の高い地位まで上り詰めて定年退職した
A氏の感性は、案外日本人男性の普通なのだろう。

性差と教育環境が感性を育てる、
という事実はもちろん自分にも当てはまる。
世の中へ出てみて、初めて自分の異質がよく見えた。

そして秋篠宮家の長男がなぜ我が校を選んだのかも
わかった気がした。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年3月24日 (火)

『アメリカン・スナイパー』のサイコパス・インサイド

「サイコパス・インサイド」は2つの点で
衝撃的、かつ興奮を掻き立てられる面白さ満載の本だ。

ひとつは「サイコパス」とは何かが理解できるという意味で。

もうひとつは、そのことが量的、統計的な分析からではなく
個別の、いわば質的な深層分析によって明らかになる点で。

著者のジェームズ・ファロンは成功した神経科学者で
幸せな家族にも恵まれている。
その彼が、「サイコパス」という反社会的なヒトの脳を分析していく中で
彼自身の脳画像が「サイコパス」そのものであることを知っていく。
その過程はまるで推理小説のようにミステリアスである。

「サイコパス」は精神医学的には診断名として確立しているわけではなく、
「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DMS)の中の
反社会性パーソナリティ障害、すなわち

「15歳以降に起こる他人の諸権利の無視ないし侵害の広範なパターンで
以下の7つの基準

①社会的規範への不適合
②無責任さ
③人をだます
④他人の幸福への無関心
⑤無鉄砲・無頓着
⑥計画がたてられない
⑦易怒性、攻撃性

のうち3基準(以上)を満たしている」

の一種とされ、医師や研究者はそれぞれ異なった定義を持っていて
いまだ決着がついていないのが問題なのだと著者は言う。

私たちは「サイコパス」という呼び名に、何か自分たちにはない異質で
極悪なものを感じて自分には関係ないと敬遠しがちだが、
彼らの脳が脳画像的にはいくらか特徴的だったとしても、
それらの持ち主が反社会的になるかどうかは、
彼らがどんな環境を生きてきたかによる、という、
ある意味当たり前の事実が、著者の分析、自己省察を通じて明らかにされていく。
「サイコパス」的要素は、人類が生き延びるために役立ってさえきたのだ!

イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』は
好戦、厭戦両方の評価を受けて大評判でとか。
たしかにどちらにも取られそうな作りではある。
私は自分が厭戦的だと自覚しているから、この映画もその観点から解釈したが
それにしては主人公のクリスの壊れ方はいかにも中途半端だと感じた。
確かに戦場から戻った彼は何か制御できない力と闘ってはいるのだが
戦闘自体をある意味プラスに評価しているようでもあり、
戦闘が原因で彼が壊れた(ほとんどの若者がそうだったにも関わらず)
と結論づけるには、やや無理があるように思われた。
イーストウッド監督にしては矛先が鈍くない?というのが
鑑賞後の率直な感想だったが、84歳の彼が失敗した、とは思えなかった。
彼が伝えたかったことを、こちらはまだちゃんと受け取れていないのだと思った。

巷の映画評はどうだろうかと、あるブログを覗いてみたら、
主人公のクリスが自著(原作)の中で

「イラク人は野蛮であり、標的になった者は悪であり、
罪悪感や自責の念を感じず、反乱分子を殺すのは面白くて射殺を楽しんだ。
唯一残念に思うのは、もっと殺せなかったことだ」(要約)
というようなことを書いていると分かった。

イーストウッド監督は戦争という人殺し行動によって、
ヒトが壊れること(実際クリスはそうした人物に殺される)と同時に
ちゃんとは壊れないヒトもいること、
そしてそういうヒトも我々の一員であることを
描きたかったのではないか、と考えたときに、
あの中途半端な居心地の悪さは一挙に氷解した。
クリスは壊れたのではなく、自分を支えてきたものとの葛藤
に決着をつけようとして、果たせなかったということだろう。

クリスは父親の教えを忠実に守って優秀な狙撃手になった。
しかし教えを守るには、それなりの素質も必要だ。
アメリカという国はきっとこれまで、サイコパス的要素を
プラスに評価してきたのだろう。
だからこそクリスのような人物も出現したのだ。

イーストウッド監督は、そのことを淡々と描いたのだ。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年5月 6日 (火)

『プリズナーズ』・・・人を動かすもの

昨今の海外TVドラマは予算が大幅に増額されて絶好調だそうである。
たしかに『メンタリスト』とか『スーツ』、『ニュースルーム』など
新シーズンが楽しみな番組は多い。
映画評論家の町山さんによれば、TVドラマは
売り先がたくさんあり利益が見込めるので、
今や映画をしのぐほどの勢いなのだとか。
ただアメリカ発の犯罪ドラマは、私にはどうも話の筋立てが単純すぎ
人間描写も表層的すぎるようで、最近はほとんど見なくなった。
おどろおどろしさと科学的な装いだけで観客を引き付けるのは
もはや限界にきているのだろう。

『プリズナーズ』という映画も、タイトルからは似たようなTVドラマの
延長戦上にあるのではという印象が強かった。
しかしこの配役はなんとも気になる。
ヒュー・ジャックマンが主演?、ジェイク・ギレンホールが共演?、
ポール・ダノも出ているって?
で、混んでいる連休に出かけたのだ。
周囲は思いっきり『アナと雪の女王』観客ばかりである。

筋は誘拐された娘を取り戻そうとする父親の物語である。
娘のアナを誘拐された父親のケラー(ヒュー・ジャックマン)が
娘を思うあまり、暴走する。
これが実に怖い。
それは彼が暴走を制御できないからではなく
理由があれば制御しなくてもよいと考えているらしい
ことが伝わってくるからだ。
彼のアクション俳優としての凄味の根っこは
ここにあったのかと、妙に納得してしまうほどだ。
そうした娘思いのケラーの感情の暴走が
いまひとつ腑に落ちないでいると、後半
彼が抱えてきた心の闇が次第に明らかになってくる。

誘拐事件を担当する刑事ロキはジェイク・ギレンホールだ。
知的で抑制的に見える彼も、実は少年院上がりである。
この経歴はむしろ非常に意外な感じがするほどだが
前半にはなかったチックのような目のしばたきは、
きっと何かがきっかけで始まっているはずだ。
もう一回観ないといけない。

アナと一緒に誘拐された黒人の娘ジョイの
父親フランクリン(テレンス・ハワード)と
母ナンシー(ヴィオラ・デイビス)は
ケラー一家と感謝祭の夕食を共にするほど仲が良い。
彼らが黒人であることが、この映画に奥行きを持たせている。

『ヘルプ~心をつなぐストーリー~』や『大統領の執事の涙』
『それでも夜は明ける』などを持ち出すまでもなく、
抑圧されてきた黒人の歴史を考えれば、
自分たちの祖先が被ったような理不尽な暴力に
歯止めがかけられるのは、彼らしかいないのではないか
と思わずにはいられないが、ここではそうはならない。
もちろんこれは我々の身勝手な期待にすぎないのだが、
まるで自分たちが被った暴力を行動様式として
学習してしまったかのような彼らの振る舞いは、
私たちが他者におこなったことは
そのまま私たちに返ってくるのだと言わんばかりである。

アナを誘拐したとケラーに睨まれて拷問されるアレックス(ポール・ダノ)は
知的障害があると思われているが、両親を亡くした過去の事故が
原因で心を閉ざしてしまったらしいことが後になって明らかになる。
ポール・ダノという俳優は『それでも夜は明ける』で、
ごく普通の人間に潜む狂気を演じて非常に印象的だった。

そしてアレックスの伯母のホリー(メリッサ・レオ)も過去に
囚われて、そこから抜け出せなかった一人として描かれる。

タイトルのプリズナーとは実際に囚われた人(アナ、ジョイ、アレックス、
そして最後にはケラーも)のことだろうが、同時に過去に囚われて
そこから抜け出せていない人をも意味している。
人は常に何かに囚われているものだが
何に囚われているかは通常無意識に沈み込んでいるから
当人には感知できない。
感知できていれば囚われなくて済むし
その影響力を自分で回避することもできる。
感知できないからこそ、私たちはそれに動かされてしまうのだ。
ケラーは信心深い人間で、常に聖書の祈りの言葉を口にする。
しかしそれによって観客は彼の行動に対して強烈な違和感を感じる。
いたるところに宗教的な暗喩(刑事の名前や誘拐犯が飼っていた蛇など?)が
出てくるので、一見宗教的なテーマが潜んでいるように見えるが
ケラーの言行の不一致に違和感を感じさせることで、
私にはむしろこの映画は宗教の相対化、
あるいは宗教からの脱皮を促そうとしていると感じられた。
神も人の無意識の産物だと考えれば、
ジェイク・ギレンホールが述べているように
これはまさしく無意識についての映画であろう。

2010年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた『灼熱の魂』で
厚みのある人間ドラマを見せてくれたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は
ここでも2時間半という長丁場に隙を見せない。

TVの犯罪ドラマがつまらないのは、
ひょっとして時間が足りないからなのかも
などと考えてしまった(笑)

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月11日 (金)

『ウォルト・ディズニーの約束』

『ウォルト・ディズニーの約束』は公開されたら必ず
観に行こうと決めていた。
「メリー・ポピンズ」は原作も映画も大好きだったが
映画では原作の持つちょっとビターな感じはだいぶ薄められており
だから原作の持つ苦味がどこからくるのか
ということが明らかになりそうなこの映画に期待した。
そしてメリー・ポピンズがこどもたちのためではなく
こどもたちの父親のためにやってきた、
ということを、この映画で初めて知った。
だから映画の原題は『Saving Mr. Banks』なのである。

映画は原作の映画化までの長い道のりと
原作者であるトラヴァースの幼少期とを交差させながら展開する。
イギリス人らしい皮肉屋で辛辣なトラヴァースと
右派と言われながらもファンタジックなアニメを数多く
制作してきた陽気なディズニーの対比が面白いが
トラヴァースの辛辣さや強靭な自我は、
幼少期に最愛の父を失うという過酷な経験と、
それを十分に咀嚼できなかったことと関連があると
思わせるように映画では描かれている。
彼女は最愛の父を救えなかった自分の無力さに対する
自責の念で頑なさから抜け出せなかったのだ。
直接の原因が自分になくても、こどもが事態を自分のせいだと
思い込むのは、よくある話ではある。

彼女の父親は作家のような想像力と繊細な感性を持つ
娘思いの男だったが、その感性は銀行マンには向いていなかった。
それがすべての悲劇の原因だったとも思える。
その結果、酒におぼれ銀行も首になり、
母親さえも危うく自殺しそうになる。

こどもの頃、母親が目の前で自殺したという知人がいたが、
それはおそらく自分が部分的に失われることと近かっただろう。
喪失による精神の不安定さは彼女の魅力のひとつでもあったが
こども時代の経験を乗り越えるのは難しかったに違いない。

だからトラヴァースがすんでのところで
母を救うことができたのは彼女にとってもラッキーだった。
こうした過酷な時期に救世主のように現れたのが
母親の姉(伯母)だった。
トラヴァースは彼女からメリー・ポピンズを造形したのである。
「メリー・ポピンズ」が持つ苦味はバンクス氏だけでなく
トラヴァース自身も救われる必要があったからだったのだ。

資質と職業のミスマッチという悲劇は、しばしば経験するところである。

映画を見ながら私は自分の父をミスターバンクスと重ねていた。
父は銀行マンではなかったが、その資質はバンクス氏同様
ビジネスには向いていなかった。
それなのにビジネスマンにならざるを得なかったのは
親の期待に背けなかったからでもあるし
時代に逆らえなかったせいでもあったかもしれない。

予測不能な不確実な時代に生きていることは、
現代人にとってはほぼ常識だが
ひと昔前までは、過去は現在を貫いて未来に向かって
直線的に続いていると思われており
過去の基準でシアワセを実現できれば
未来のシアワセにつながると考えられていた。
そんな中では、シアワセとは試行錯誤しながら
自分で見つけるものだ、などと考えるのは
さぞエネルギーの要ることだっただろう。

そうした時代がもたらす悲劇を考えれば、
こどもが親の期待などどこ吹く風と
好き勝手にふるまえる現代は、つくづくいい時代だと思う。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月28日 (金)

医療の民主化

ソチ五輪も終わり、日本は春に向かう三寒四温の日々。
ベランダのチューリップも開花準備万端である。
腰が怪しいこともあり、レッスンを休んで
ららぽーとシネマへ『大統領の執事の涙』を観に行く。
今年のアカデミー賞の発表も楽しみだが、
この映画は賞とは関係なくリストアップしておいたもの。

映画はホワイトハウスの歴代大統領のエピソードを織り交ぜながら
(品のいいロビン・ウイリアムス!品性の悪そうなジョン・キューザック!)
人種差別で虐げられてきた黒人が
長い道のりを経て人権を勝ち取っていくさまを
政治と絡めながらコンパクトに見せてくれる。
バネッサ・レッドグレーブ、ジェーン・フォンダ
という人権派も出演しているのが嬉しい。
2つの顔を持て、相手の心を察して振る舞え
なんて、まるで日本人の処世術みたいだが、
日本人がどこかアフリカ系黒人と通じるところが
あるように感じられるとすれば、日本人もまた
民主的であることをどこかで避けようとしてきた歴史が
あるからからかもしれない。
そういう処世訓を忠実に守って生きてきた父親と
民主主義は自分で勝ち取らなくては手に入らないと
考える息子の対比が物語の骨子になっている。
不器用そうなフォレスト・ウイテカーが、
いつかお盆をひっくり返すんじゃないかとハラハラしながら
さて日本人は、こんな風に権利に敏感に、貪欲に
生きてきただろうかと考えさせられる。

というのは

電話相談は相手(かけ手)の主体性を
最大限尊重するためのものだが
小児救急電話相談で相談員である医療者にとって
もっとも難しいのが、かけ手である一般人の主体性を
尊重するということだからだ。

健康小話というブログでは、これを
「医療の民主化」と表現している。
http://tommy.asablo.jp/blog/2013/11/28/7079612
電話相談はまさに医療の民主化をめざしているわけだが
相談と指導の区別がついていない医療者は、
なかなかそこが認識できない。

ブログによれば「医療の民主化」とは佐久総合病院の院長だった
故若月俊一先生が始めた運動だそうである。
若月院長は60年かけて佐久でこの運動を達成しようとした。
でも最後の記念講演で、2-3割しか達成できなかった
と述べたそうである。

その理由は

「医療の民主化は医療だけではできない。地域が民主化しなくては
医療は民主化できない」からだった。

若月院長を師と仰いでいた現NHK厚生文化事業団事業部
チーフプロデューサー川村雄次氏によれば

「医療の民主化とは、自分たちの問題を自分たち自身でとりあげ、
自分たち自身で解決の道を探れるようになること」である。

それはまさに電話相談がおこなってきたことである。
自分で問題を見出し、それを解決しようと自分から電話をし相談する。
自分の生活の中でどう解決できるかを探るためである。
ところが医療者は医療(機関)において
問題解決をしているのは自分、という自負が強いから、
つい電話でもそれが出てしまう。
問題解決の権利を相手に委譲してしまうと
自分の存在価値がなくなってしまうと思ってしまうのだろうか。
このあたりは黒人の権利を認めることは
自分たちの権利を侵害されることだと考えていた
白人の心理に似ているかもしれない。

ブログでは、「医療の民主化」には本当の意味での
”住民参加”が必要であり、それはシェリー・アーンスタインが
示した8段階の「参加のはしご」の最上段
「住民によるコントロール」つまり「住民主体」に
到達することだと説明されている。

そしてこの”住民参加”のはしごを上るために
医療には新しい定義が必要になる。

つまり

「医療とは人がその人らしく生きるために医術で病気を治すこと。
ただし治らない病気の時はその人がその人らしく最期まで生きられるように
寄り添い支えること」というものだ。
これは医療の目的について再考することでもある。
病気は治せても、その人らしさに寄り添うことまでは
手が回っていないのが今の医療だからだ。
電話相談はかけ手がその人らしく生きられるように
寄り添い支えるためのものでもあるのだ。

しか~し、どうやったら医療者にそこを理解してもらえるだろうか。
でも道のりは長いかもしれないがきっといつか達成できるだろう。
『大統領の執事~』でだってオバマは大統領になったのだし。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年2月17日 (月)

おおかみ男の父を超える

ソチ五輪満載のテレビで運よく『おおかみこどもの雨と雪』を観た。
アニメはふだんは敬遠してほとんど観ないのだが
あまりに観る番組が乏しいので、ま、いいかと
チャンネルを合わせたのだが、これが予想外にアタリだった。
細田守監督、今まで知らなくてゴメンナサイ。

この物語の根底に流れているのは、おおかみ男とヒトの間に
生まれたこどもたちの、自分は何者?という自我獲得物語だが
それを静かに見守る母性も色濃く描かれる。
これはたぶんに原作者の理想の反映と思えるが
この強い母性はおおかみ男を伴侶とすることも厭わなかった
積極的で確固とした女性性があってのことだろう。
でも、その後の苦労は子どもを育てながら生活を
したことのある人であれば容易に想像がつく。
アニメはそのあたりはラッキーの連続である。
ま、アニメだし。
一方でおおかみ男である父は早い段階でいなくなる。
彼がなぜ早い段階で亡くなったのかは、あまり語られないが
ここにも原作者の思いが表れているように思う。
つまり男というのは生きた証しさえ残せれば
早々とこの世から消えていくものだ、という諦念である。
男にとっての生きる目的は自分の証しを残すことで
それは瞬間のできごとでしかない。
それがどんな形をとるかは人さまざまということなのだろう。

NHK Eテレの『日本人は何をめざしてきたのか』は
その一端を見せてくれているように思う。
これは久々に見応えのある番組だった。
どんな会長がアホでも、現場はスマート(賢明)でいてほしい。

青森県むつ市の初の原子力船寄港に始まって
六ヶ所村の核燃料再処理施設建設に至る下北半島に
地域振興政策がもたらした結果を淡々と描いて印象に残る。
札束で頬っぺたを引っ叩くような政策に翻弄され
生活の生業の場と引き換えに大金を手にした結果の豪邸も
想定通りにいかない経済の流れで寂れ果てる。
誰もその責任をとってはくれない。
未来を読むことなんてできないから、その日その日を大事に
しながら生きるというのが、この日本という地に住む人が培ってきた
生きる知恵だったはずだが、祭りについ舞い上がってしまう
特性もあって、時としてそういう地道さは忘れられてしまう。
再処理事業を止めるなら、処理済み核燃料の保管受け入れは拒否、
という六ヶ所村の決断は見ているこちらに
「当然だよな」と思わせて痛快である。
恩恵だけを受けて、ゴミ(廃棄物)には感知しないという
自分勝手な態度は強烈なパンチを食らっているのだ。

そもそも日々の生活では必ずゴミが出る。
特別に美味しいものを食べなくても
人は食べ物を口から入れて肛門から毎日屁やウンチ、尿を出している。
ツイッターで微分化しなくたって、毎日細胞は入れ替わり
生と死を絶え間なく再現している。
私たちはそれを意識できていないだけだ。

原発という一夜の夢にも似た生きた証しが欲しかった人たちは
廃棄物というゴミのことを考えることができなかった。
彼らには生活(生きるということ)がどういうものか
分かっていなかったからだ。
そういう彼らから何を得て、どう超えていくのか、
それが残された私たちにとっての課題だ。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月28日 (月)

なりすまし

ふと思い立ちルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』と
アンソニー・ミンゲラの『リプリー』をTSUTAYAで借りてきて観る。
『太陽が・・』(1960年公開)はすでに見たつもりでいたが
アラン・ドロン(リプリー)がモーリス・ロネ(ディッキー)を刺す場面は
全く記憶になく、今回初めて観たような衝撃を受けた。

人間はさまざまな感情が蓄積されて行動化に至るが、
何がきっかけになるかは誰にも分からない。
論理はもともと後づけだから、説明はあとからならいくらでも可能だが
「今だ!」という瞬間的な判断はむしろ野人のもので
だから監督にはアラン・ドロンが必要だったのだろう。
町山さんによればルネ・クレマンはホモだったそうだが
アラン・ドロンの美しさの中に垣間見える野卑を見抜いたのはさすがである。
ただ、この作品は時代のせいもあってリプリーとディッキーの
ホモセクシュアルな関係はかすかに匂う程度だ。
ここに焦点を当てた淀川さんはさすがだった。

一方1999年公開のアンソニー・ミンゲラ監督による『リプリー』は、
同じ時代を描きながらも、もう少しリプリーの内面を丁寧に描いている。
マット・デイモン演じるリプリーは自分の中にある暗黒を意識し、
かつそれを制御できないことを悩んでいる(ように見える)。
アラン・ドロンが自分の内面を意識しているようには見えず
自分の感情に衝動的に忠実に振る舞ったように見えるのに対し
マット・デイモンのリプリーは、場当たり的とはいえある意味賢く、
自分に対する洞察力もあり、ジュード・ロウ演じるディッキーに対する
ホモセクシュアルな感情も充分意識しながら、
それらとうまく折り合いがつけられなかったために結末に至る。

どちらも生きるということは計算できるようでいてできない、
ということをそれぞれ違う視点から見せてくれる傑作である。

そして面白いのは、どちらも偽装される側より
偽装する側の方を魅力的に描いていることだ。

アラン・ドロンは金持ちのディッキーよりはるかに見栄えがよくスマートである。
若い時のモーリス・ロネも悪くはないが、金持ちらしい魅力はあまりなく
なんとなくふやけた感じさえする。
もっともこれは今観るからそう思うだけかもしれない。
ジュード・ロウはマット・デイモンよりはるかに美しく洗練されていて、
いかにも金持ちのぼんぼんらしさを漂わせて魅力的だが、賢さでは負ける。
成り上がりたいという欲求がない分、空虚なのである。
最後の方で彼も結構問題を孕んでいたことが明かされるが
誰でも見かけと内実は違うものだと言いたげである。

そうだとしたらなりすますことの問題はどこにあるのだろうか。
道徳的な問題は別にして。

たとえば阪急阪神ホテルの偽装。
リッツ・カールトン大阪も系列だとは知らなかった。
リッツ・カールトンのオープンは業界ではちょっとした騒ぎだった。
もちろん騒ぎ自体が偽装だった可能性もあるが
顧客満足度第一、という謳い文句はオープン当時、まだ目新しかったのだ。
そのホテルが、このざまである。

飛びっこをレッドキャビアと称したとか、
ネギの産地をごまかしたとか
安い海老を使ったとか。

安いコストでもそれなりに価値を高める技術があれば
それは一種の商才といえるんじゃないか、と商売に疎い人間は考える。
ミシュランだって見抜けなかったそうじゃないか。
そんなもん一般大衆が見抜けるわけがない。
もちろんミシュランの格付けに権威があるといいたいわけではない。
偽装に共同体を作られたら太刀打ちできないと言いたいだけだ。
出す方だって見抜けるわけがない、と確信しているからやったのだ。
で、お客はその時点ではなんておいしい!とか、さすがカールトンとか思い、
ありがたがって高い対価を払ったのだ。
これのどこが問題なんだろう。
契約違反だというなら、
「レッドキャビアって何の卵なの?」とか
「パナメイ海老のような味がするけど、ほんとに芝エビ?」
とか聞いてみればよかったんじゃないだろうか。
騙される側が、騙されたいから騙されたのである。

なりすましは最終的にばれるのが必然かもしれないが
リプリーにはディッキーへの憧れや自分に対する制御できなさという
止むにやまれぬ切実さがあった。
リッツ・カールトン大阪も、なりすまそうとここまでがんばってきたが
ついにバレてしまったということなのかもしれない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧