2015年3月24日 (火)

『アメリカン・スナイパー』のサイコパス・インサイド

「サイコパス・インサイド」は2つの点で
衝撃的、かつ興奮を掻き立てられる面白さ満載の本だ。

ひとつは「サイコパス」とは何かが理解できるという意味で。

もうひとつは、そのことが量的、統計的な分析からではなく
個別の、いわば質的な深層分析によって明らかになる点で。

著者のジェームズ・ファロンは成功した神経科学者で
幸せな家族にも恵まれている。
その彼が、「サイコパス」という反社会的なヒトの脳を分析していく中で
彼自身の脳画像が「サイコパス」そのものであることを知っていく。
その過程はまるで推理小説のようにミステリアスである。

「サイコパス」は精神医学的には診断名として確立しているわけではなく、
「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DMS)の中の
反社会性パーソナリティ障害、すなわち

「15歳以降に起こる他人の諸権利の無視ないし侵害の広範なパターンで
以下の7つの基準

①社会的規範への不適合
②無責任さ
③人をだます
④他人の幸福への無関心
⑤無鉄砲・無頓着
⑥計画がたてられない
⑦易怒性、攻撃性

のうち3基準(以上)を満たしている」

の一種とされ、医師や研究者はそれぞれ異なった定義を持っていて
いまだ決着がついていないのが問題なのだと著者は言う。

私たちは「サイコパス」という呼び名に、何か自分たちにはない異質で
極悪なものを感じて自分には関係ないと敬遠しがちだが、
彼らの脳が脳画像的にはいくらか特徴的だったとしても、
それらの持ち主が反社会的になるかどうかは、
彼らがどんな環境を生きてきたかによる、という、
ある意味当たり前の事実が、著者の分析、自己省察を通じて明らかにされていく。
「サイコパス」的要素は、人類が生き延びるために役立ってさえきたのだ!

イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』は
好戦、厭戦両方の評価を受けて大評判でとか。
たしかにどちらにも取られそうな作りではある。
私は自分が厭戦的だと自覚しているから、この映画もその観点から解釈したが
それにしては主人公のクリスの壊れ方はいかにも中途半端だと感じた。
確かに戦場から戻った彼は何か制御できない力と闘ってはいるのだが
戦闘自体をある意味プラスに評価しているようでもあり、
戦闘が原因で彼が壊れた(ほとんどの若者がそうだったにも関わらず)
と結論づけるには、やや無理があるように思われた。
イーストウッド監督にしては矛先が鈍くない?というのが
鑑賞後の率直な感想だったが、84歳の彼が失敗した、とは思えなかった。
彼が伝えたかったことを、こちらはまだちゃんと受け取れていないのだと思った。

巷の映画評はどうだろうかと、あるブログを覗いてみたら、
主人公のクリスが自著(原作)の中で

「イラク人は野蛮であり、標的になった者は悪であり、
罪悪感や自責の念を感じず、反乱分子を殺すのは面白くて射殺を楽しんだ。
唯一残念に思うのは、もっと殺せなかったことだ」(要約)
というようなことを書いていると分かった。

イーストウッド監督は戦争という人殺し行動によって、
ヒトが壊れること(実際クリスはそうした人物に殺される)と同時に
ちゃんとは壊れないヒトもいること、
そしてそういうヒトも我々の一員であることを
描きたかったのではないか、と考えたときに、
あの中途半端な居心地の悪さは一挙に氷解した。
クリスは壊れたのではなく、自分を支えてきたものとの葛藤
に決着をつけようとして、果たせなかったということだろう。

クリスは父親の教えを忠実に守って優秀な狙撃手になった。
しかし教えを守るには、それなりの素質も必要だ。
アメリカという国はきっとこれまで、サイコパス的要素を
プラスに評価してきたのだろう。
だからこそクリスのような人物も出現したのだ。

イーストウッド監督は、そのことを淡々と描いたのだ。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 5日 (水)

日本人はユートピアを目指す

橘玲氏の『(日本人)かっこにっぽんじん』を面白く読む。
日本人論である。
400ページ近い分厚い本だが、「ああ、読むと終わっちゃうぅぅ」と思いながら
ページをめくらずにいられなかった。
読書で寝食を忘れそうになったのは(忘れなかったけど)久しぶりだ。
著者については全く知らなかったが、アマゾンのレビューによると
「宝島」の編集者だったそうである。
読者を楽しませるのが上手いのは、そのせいかもしれない。

どんな民族でも、特殊と言えば特殊だしそうじゃないといえばそうじゃないが、
日本人は、比較的自分たちを特殊だと思いたがる傾向があるのかもしれない。
たぶん理解してほしいと渇望しながらも、
常に理解されていない感じがつきまとっているのだろう。
その辺のところを、この本はうまくすくいあげている。
実際には日本人の特性と言われるものは多くの点で
農耕社会を生きてきた東南アジアの民族とほとんど同じであり、
決して特殊じゃない。
たとえばタイには13種類の微笑みがあり、
アクシデントに際してもそれは消えないという例が示されるが
これを単なる無作法と断罪せず、なんとなく理解してしまうのは、
私たちも同じ系列の民族だからだ。

ところが世界価値観調査というのがあって
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BE%A1%E5%80%A4%E8%A6%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB
これによれば、日本人は世界でも突出して世俗的・合理的である。
たしかに結果マップを見ると、日本人はまるで北海の孤島のように
ポツンと離れたところに位置している。
もっとも世俗的・合理的という表現はどう考えても
日本人を正しく表していない感じで違和感がある。
世俗的はまあいいとしても、およそ合理的とは程遠いのではないか。
そんなに合理的なら、もっと国際社会でもうまくやれるんじゃ?と思わなくもない。
でもこれを現世利益的(現実的)、快感原則優位的と言い換えると
なんとなく自分のことを言われているような気になってくるから不思議だ。
私は社会学者じゃないので、この種の調査の設問や
回答者の質問理解、あるいは回答のしかたなどが
どんな風に結果にバイアスをかけているかは分からないのだが、
結果だけを見ると確かに特殊である。
う~ん、こんなに離れ小島にいては、やっぱり理解されにくいかも。
そしてこの調査結果によれば
日本人は世界でもダントツに権威や権力を嫌う国民らしいのだ。

一方で日本人はアメリカ人よりも個人主義的(自分勝手)
という山岸俊男さんの実験結果も示される。
この実験結果は私も知っているが、最初に読んだときは、
やはり実験方法に問題があるんじゃないかと思った。
私のイメージではアメリカ人こそが個人主義的で、
だから日本人はいろいろな局面で敵わない(負ける)のだと思っていたからだ。
誰でも他者に対する固定したイメージを持ち、多くの場合自己イメージとは
他者の持っているイメージが自分に投影されたものだと著者は言う。
日本人はつつましく謙虚で自己主張しないと言われているのは
そう思われていると自分が思っているだけなのかもしれない。

著者の解説によれば、日本人は世界でもっとも世俗的で
「他人に迎合するより自分らしくありたい」
「じぶんの人生の目標は自分で決めたい」と考えており
ご利益のない神を信じず、地縁も血縁も捨てて
「一人一世帯」の無縁社会に生きている。
ここでのエピソードはあまりにぴったりしていて爆笑ものである。

最後の方で著者は自分のユートピアと注釈をつけつつ
貨幣経済は評判経済にとって代わられると述べ
評判経済はみんなを善人にする。
この最先端に日本人はいるのだと述べる。

権威権力は嫌いだけど超世俗的な日本人。
金の代わりに評判がとって代わると言うのは・・・
私自身は承服しがたいがありなのだろうか?
と考えていたらWOWOWの海外ドラマ『ニュースルーム』で
「ウイル(主人公)は孤独だから視聴率を気にするのだ」というセリフが出てきた。
このドラマはアーロン・ソーキン(ソーシャル・ネットワーク)の脚本で
テレビジャーナリズムの内側を実に興味深く描いているが、
そうか、孤独 という補助線があったか。
たしかこれって援助交際をどう理解するか、というところにも出てきた。
ツイッターもフェイスブックも、孤独から逃れる手段と考えれば
人類はみんな日本人みたいになりたがっていると言えなくもない。

もっともユートピアを目指す最先端には
孤高な歩みしかないような気もするが・・。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月29日 (月)

『聖書を語る』

入院中はもちろん、退院してからもしばらくは活字を読むのがつらかった。
入院中も短時間とはいえテレビはよく見ていたから
この差は何だろうと考える。
言葉の理解にあるのか、視覚情報の処理なのか。
テレビはつらくなかったのだから、
視覚情報の処理が負担だったわけでもなさそうだ。
もっとも大半はスルーしていたってことかもしれないが・・・。
耳から入る言葉には抵抗はなかったから
言語の処理が問題だったわけでもなさそうだ。
ただテレビ視聴も長時間になると吐き気や頭痛が出てダメだった。

目から入る言葉(活字)の処理では
何か特別な負担が脳にかかっているのだろうか。
しばらくはパソコンを開ける気がしなかったのも興味深いところである。

なので退院後1ヶ月ほど経って、新聞を読んでも頭痛や吐き気に
悩まされなくなったと分かったときは嬉しかった。
何しろ3ヶ月くらいは活字から離れていたわけで
シアワセをひとつ取り戻した感じである。

そんなときに最初に読んだのは『聖書を語る』という
佐藤優さんと中村うさぎさんの対談。
読めるようになった時のためにとアマゾンでレビューを読んで
注文しておいたのだが、これが抜群に面白かった。
佐藤優さんが神学部卒というのは知っていたが、
中村うさぎさんがプロテスタントというのは知らなかった。
中村さんについてはブランド物をやたらに買いあさりながら
週刊誌のコラムを書いている人、という以上は知らなかったのである。

佐藤さんがカルヴァン派で、
だから獄中でもめげなかったという話も驚きだったが、
中村さんの原罪についての解釈も共感するところ大だった。
アダムとイブが楽園を追われたのは自意識を持ったからで
原罪とは自意識のことだというのである。
たしかに、自分たちが裸であることに気づいたというのは
自意識、つまり他者の目の獲得だろうが、
それでエデンの園を追い出されたということは、
キリスト教も大いなる全体の世界を理想としているってことなのか?

私が知っているキリスト教信者から共通して受ける感じは
確固とした意思の強さや、個として際立っているあり方で
むしろ他者とは融合せず、わが道を行くというような
カッコよさだが、本音のところでは
それを罪と感じていたのかもしれないと思うと、ちょっと親近感がわく。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月25日 (火)

私たちを動かす集団力学

シャンカール・ヴェンダムという人の『隠れた脳』という本を読む。
著者は科学ジャーナリストというだけあって、
文章が読みやすく、久々にあっという間に読み終えてしまった。
サブコピーに「好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学」
とあるように、隠れた脳とは、無意識のことである。
ただし、ここで扱われているのは個人の無意識ではなく、集合的無意識。
それがどのように働いているかが、
さまざまな実際の事例とともに、現象学的に明らかにされていく。

明らかになるのは、主に他者とのつながりに関係する無意識である。
たとえば客の注文を繰り返すウエイトレスの方が、
そうでない者よりチップが多いのは、
その方がいいサービスを受けたと客が無意識に感じるからである。
客が送る無意識のシグナルに、ウエイトレスが無意識のシグナルで
応えており、それに客は安心するのである。
もちろん、ここで言われているのは、
おうむ返しをマニュアル化すればいいということではない。

ドリンクコーナーの棚に貼る写真を花ではなく、人の目に変えると
タダ飲みが減る、というのも面白い実験である。
私たちがすべてを意識的に決断できているのであれば、
写真が花でも人の目でも行動は変わらないはずだが、
人の目が張られていると行動が変わってしまうのはなぜか。

しばしば政治家が失言、暴言を吐くのも無意識の働きによる。
当の本人が意識的に判断しているのなら、
損得を考えれば言わない方が得に決まっていることを言うはずはない。

自分の意見を言うように指示されると、頭の中では意識的な脳と
隠れた脳が対峙して議論を始めるが、勝つのは常に意識的な脳である。
意識的な脳がパイロットだとすれば、
隠れた脳はオートパイロット(自動操縦)機能であり、
パイロットは常にオートパイロットより優先する。
でも、パイロットが注意を払っていないと、
オートパイロットが機能してしまうのだ。
とっさの時に本音が現れる。
暴言を吐いた政治家を「緊張感に欠ける」と評するのは当たりである。
その人の行動と意図が相反する状況では
無意識のバイアス(偏り)がはたらいている、と見るとよい。

やっかいなのは、人種や性別に対する偏見のような無意識は、
こどもの頃から周囲の状況を取り込む形で意識されずに
取り込まれ積み重ねられているから、誰もがそれを当たり前に思っており、
なかなか偏見はと気づかれない。
もちろん新聞やテレビなどのマスコミなども、
自分たちの無意識には気づかない。
さらには老人になると、脳をコントロールする力が減退するために
より偏見をあらわにしがちになる。
高齢者が暴言を吐くことが多いのは、
積み重ねとコントロール不足の両方が関係しているのだ。

人が所属する集団に引っ張られる無意識のバイアスについては
9.11での逃避行動から説明されている。
9.11では、各個人が自分の判断に拠ったのではなく、
とっさにどの集団に自分を所属させたか、で生死が分かれたのである。
さまざまな証拠が、逃げるにしても留まるにしても、その決断は
”集団の決断(マス・ディシジョン)”だったことを示しているという。
集団の決断は何かにつけて私たちに信号を送っている。
そこでは個人の細かな事情
(誰が何をして、誰が何を感じ、誰が何を考えているのか)は、ノイズなのだ   
と著者は書いている。

そうだとすれば、大津波の時に岩手で言われている
「津波てんでんこ(それぞれが自分で逃げろ)」は、
かなり難しい行動基準なのかもしれない。

なぜ集団の決断に従おうとするか。
それが進化的に有利だったからである。
人は追い詰められると大勢の幸福より私欲に走ると、私たちは考える。
このステレオタイプもまた、私たちは合理的な生物で、
自己保存を最優先するという前提から生まれたものだ。
ところが現実には、人間は自分を傷つけ、全体の生存可能性を
減らしてでも、お互いを助け合うことがある。
その生得的な傾向は、今でも脈々と受け継がれて
随所で行動に影響を与えていると考えた方がいい、
というのが著者の言いたいことだろう。

しかし今の時代、集団でいる安心感を優先すると
個人が危険にさらされるケースが以前より増えた。
それは現代の危険があまりにも複雑で、
いったい何が起こっているのか、誰にもわからない場合が多いからだ。
だから、集団は誰も気づかないうちに
個人の自主性を奪ってしまうことがある。
自主性は不安を引き起こすが、災害に巻き込まれた状況では
不安こそが正しい反応なのだ、と著者は言う。
これは災害を想定しなくても、理解しやすい話ではないだろうか。

集団に所属することの安心感は、テロリスト集団やカルト宗教集団
に所属する人の行動という、反対の角度からも説明されている。
これらの人たちの行動は、たいていの場合信仰や政治的な大義のためと
説明されることが多いが、もっと子細に見れば、
所属する小さな集団の心理に影響を受けた結果だろう
というのが著者の見解である。

小さな集団の力学。

ここでは第二次大戦の日本軍の特攻隊も例に上がっているが
あさま山荘における連合赤軍、オウム真理教など、
すぐに連想できる例は多いだろう。

自分より大きいものの一部になりたい、自分が特別な存在だと思いたい
その存続と安定が、自分の命より大切な集団の一部になりたい
という衝動が、人を突き動かしているのである。
誰もがロックスターになりたいのだ、という表現は言い得て妙である。

人はだれでも(日本人だけじゃないのね!とちょっと安心)、
集団に引っ張られる傾向があり、
自主的に決断しているつもりでも案外怪しいものである。
何かを決断するときには、ひと呼吸おいて
そうじゃない決断をなぜしなかったのか、と考えてみるのもいいかもしれない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月14日 (火)

オープン・アーカイブ

SNSの日記に、#8000の報告書が届いた、と書いたら
そういうのはネットで公開すればいいのにね、という書き込みがあった。
そうだよね。こっちは手弁当でやっている活動なのだから、
その成果はだれにでも見られるようにしてほしいものだ。

小児科医のMLで、
電子書籍の普及で本屋さんはどうなるのか、
という記事が話題になっていた。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/feature/post_2001

街の本屋さんが生き残り策として絶版本の印刷を請け負う
という話には、ちょっとした感動を覚える。
誰もやらないことをやってこそ価値があるというものだろう。
しかし、そのためには絶版本がデータとして電子化されている
必要があるわけで、問題はこっちの方かもしれない。
古本屋さんたちは、どの程度電子化に積極的なのだろう。
モノとしての形をなしているからこそ、
希少価値が生まれるということもあるわけだし、
データだけあれば済むってことになってくると、
価値意識もずいぶん変化を求められそうだ。

一方こんなのもある。
「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」
http://wired.jp/wv/2011/06/06/

・読了へのプレッシャーがない

というのはたしかに説得力がある。
形になった本だと、読了未満というのは一目瞭然で
そこが、かなりのプレッシャーではある。
中断している本が、あたりに散乱している様子は、
なんだか自分の根気のなさを証明しているみたいで
自己嫌悪に陥ることこの上ない。
もっとも、最近では「本なんて最後まで読もうと思わなくていい」
という風にプレッシャーを軽減してくれる意見もあり
「そうだ。自分にとって意味があると思えるところだけ読めばいいんだ」
という風にも思えるようになってきたから
これは電子書籍の勝ちポイントでもあるかもしれない。
ただ、

・余白への書き込みができない

というのは、案外大きいかもしれない。
付箋を貼れない、というのも大きいだろう。
どこに貼ったか一目瞭然、というのが本のいいところでもある。

本が並んだ本棚を眺めて楽しむ、ということができないのも
電子書籍のウイークポイントかもしれない。
自分の出来上がり具合を証明する手がかりというのは、
自分で確認できてこそ意味があるってことだろうか。
そうやって強化していないと確信が持てないとしたら
「自分」ってなんて儚いものだろう。

でも、公共図書館の本を電子書籍で借りられるようになったら
これはいいかも!という気もする。
もちろん端末は自前だが。
そうなると、予約本の順番を待たなくて済むようになるのだろうか。
今は電子書籍もお金を出して購入するようになっているが
簡単にコピーできるデジタルデータに高いお金を払わせる
というのは、なんとなく違うんじゃないかという感じはしている。
どんなに重い本でも、どんなに多数の本でも持ち歩けるし、
老眼でも暗いところでも気にせずに読める、というのが
電子書籍のメリットとされているけど、案外本当のメリットは
レンタル性というか頒布性とか公開性ってところにあるんじゃないだろうか。

目下のところ電子書籍については
どうやってお金を払わせるか、ってところでせめぎあいになって「いる
みたいだが、誰でもどこからでもアクセスできるという特性を考えれば
たぶん従来の取引概念とは全く違うものが生まれてこないと
変なんじゃないかという感じはする。
そういう意味では電子化はパンドラの箱なのかもしれない。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月13日 (木)

『マイ・バック・ページ』

暮れから体調がいまひとつすっきりしないので、
ホットカーペットの上でゴロゴロしながら、
カタログハウスから送られてきた「通販生活」に目を通す。
ときどき大きな買い物をするので、そのたびに
しばらくカタログを送ってくれるのだ。
いつも「後で読もう」と思ってそのままになってしまうのだけど
今回は後回しにする元気がなくて、
おかげでゆっくりのんびり目を通すことになった。

川本三郎さんと落合恵子さんの対談が載っている。
川本三郎さんが新聞や雑誌に書かれた文章は読んでいるが
今まで特別に気に留めたことはなかった。
映画は好きだが映画評論にはそんなに関心がなかったからかもしれない。
でも、この対談で初めて川本氏が大学卒業後、
朝日新聞に入社し、しかも3年で懲戒免職になったことを知った。
そのことを綴ったのが
『マイ・バック・ページ』~ある60年代の物語~という本である。
対談を読んでいるうちに急に、川本氏が朝日に入社し辞めるまでの
あの時代を振り返ってみたくなり、図書館で借りて読み始めた。

当時の私は、大学入学時に判明したある私的な問題を消化するのと
やむを得ずの独り暮らしに慣れるのに精一杯で、
大学紛争に浸かっている余裕は全くなかったが、
身近にあの熱気のようなものを感じることはできた。
今風に言えば、うざいほどの東大生はまわりにうじゃうじゃいたから
あれが政治行動ではなく思想行動だった、という表現はとても腑に落ちる。
川本氏が

なにか具体的な解決策を探る運動というより
「お前は誰だ?」という自己嫌疑を続けることが重要だったのだ。ー略ー
現実レベルではあらかじめ敗北が予測された運動だった。

と書いているように、おそらく無意識に敗北は予想されていたのだろう。
実際、東大生たちとのセツルメント活動に夢中だった同級生のほとんどは、
その後どうということはなく、ふつうの専業主婦になってしまい
ただのノンポリだったこちらの方が拍子抜けしてしまった。
思想行動にさえ至っていなかった連中が大半だったのだろう。

川本氏は、そういう時代の中で入りたかった朝日新聞に一浪までして入社し、
ジャーナリストのあり方を自問しながら、運動家と職業人の間で
宙吊り状態のまま、ある男に裏切られる格好で朝日を懲戒免職になる。
それはひりひりと痛々しく、後悔に満ちた年月だけれど
「これが若さだ」と賞賛したくなるようなまぶしいものでもある。
ほんとは、映画や演劇やジャズが好きで文化部配属が嬉しかったのに
異動とともに、やっぱりメインステージに惹かれて政治ネタを追いかけ、
それに手ひどい仕打ちを受けて挫折する。
こんなのは若いときじゃなければできない経験だろう。

現代に比べて、あの時代は誰もが無防備だったような気がする。
誰もがまだまだすれておらず、直情的で(ノンポリさえも)
だまされやすかったんじゃないか、という感じさえする。
そんな中で、川本さんをだましたKという男の自己顕示欲は極めて現代的で、
そういう意味では時代は何も変わっていないとも思うが・・。

『マイ・バック・ページ』の初版は1988年だが、
20年経って妻夫木聡主演で映画化されることになり、
今年5月に公開予定だそうである。
60年代というあの時代が、21世紀の今、というメガネで
どのように見えてくるのか楽しみである。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年11月28日 (日)

ゴダールと『もしドラ』

『ゴダール・ソシアリスム』公開に先駆けて、
『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』が上映されるという話を聞き、
初日の『勝手にしやがれ』のチケットを購入する。
上映前に日経に映画評論を書いている中条さんのトークもあるらしい。
『勝手にしやがれ』の初上映は今から50年前で、
だからというわけではないが、ゴダール映画はちゃんと見ていない。
なんとなくフランス映画は敷居が高かったのである。
そのゴダールも80歳、イーストウッドと同い年だそうである。
ブルータスの「映画監督論」によれば、
ゴダールは結構イーストウッドを意識しているらしい。
と聞くと、俄然ゴダールに興味がわいてくる。
イーストウッドの何がゴダールに意識させるのだろう。

ヌーベル・バーグという言葉が、新しい波という意味だとは
知ってはいたものの、実は何を指しているのかは知らなかった。
中条さんの解説で、それが映画の撮り方の革命的な変化のことだったと知る。
それまでの映画は、カメラを固定し、室内で、いわゆるスターが
リハーサルを踏まえて、きちんとしたセリフを喋るというやり方で撮られていた。
それをゴダールは『勝手にしやがれ』で、まったく変えて見せた。
カメラを屋外に持ち出し、街中でリハーサルもほとんどなしに撮影し、
ブツッ、ブツッとまるで脈絡なくぶった切るような編集のし方で作ったのである。
以後、映画はそのように作られるようになった。
今われわれが見ている映画は、ほとんどがゴダールを踏襲しているという。
そういう意味で、ゴダールは後世の映画制作者に非常な影響を与えたそうだが
誰もやらなかったことをやるという意味では、孤独でもあっただろう。

『ゴダール・ソシアリスム』は予告編で見ても、
どういう話なのかまったく分からないが、中条さんの解説によれば
「行き着く先には希望がない」ということを言っているらしい。
もっとも最近はどこを向いても「希望なし」だらけだが。

そういうわけで『勝手にしやがれ』は、映画的には今観ても
まったく違和感なく、若い頃のジャン・ポール・ベルモンドは
いかにもゴダール好みのアウトローという感じだ。
それにしてもフランス語が乾いているのか
フランス人が乾いているのか、よく分からないが
べルモンドとジーン・セバーグのやりとりに情緒的なものは全く感じられない。
自動車泥棒や殺人は、あたかも小道具のように淡々と描かれて問題にされず、
ベルモンドがセバーグを口説くセリフだけが延々と続く。
でも、ベルモンドもセバーグも、自分というものがつかめていない。
そういうもどかしさを抱えたまま結末を迎えるところは、
なんだか50年前に、すでに現代を先取りしていたとしか思えないほどだ。
今になってみれば、男と女がほとんど分かり合えない、というのは
ごく当たり前の事実で、だからなに?という感じだが、
この時代はふつうには、おそらくそんな風には思われていなくて
ゴダールの鋭敏な感性だけが、それを描き得たのだろう、と想像する。

と、こんなことを考えたのも、実はその前にやっと娘から借りた
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
を読み終わったからなのだ。
この通称「もしドラ」はベストセラーになっただけあって、なかなか面白かった。
これだけ売れた原因のひとつは、ドラッカーの威力もさることながら
野球がテーマだったということも大きいだろう。
なんだかんだと言ったって、野球はまだ充分に
日本人のノスタルジーをかき立てるスポーツだし、
野球だからドラッカーが通用した、ということもあるかもしれない。
そして何よりも「高校野球版プロジェクトX」になっているところが
多くの読者をひきつけた所以だろう。
努力、献身、希望、そして人間同士の情緒的なつながりがもたらす成功物語
というのを、くりかえしみんなが読みたがっている現実があるに違いない。
そこには、ベルモンドやセバーグがもがいていたような
分かりあえなさというのは微塵もなく(ひとりを除いてみんな高校生だし)、
「やればできる」という前向きな希望をかき立ててくれる。

50年前にすでに描かれていたもどかしさを、
希望という形で乗り越えようとする文化に対して
ゴダールはどんな回答を与えてくれるのだろう。
そう考えると『ゴダール・ソシアリスム』はちょっと楽しみな映画になってくる。

ERテレフォンクリニックウェブサイト: http://homepage2.nifty.com/er-telclinic

| | コメント (0) | トラックバック (0)