2014年2月17日 (月)

おおかみ男の父を超える

ソチ五輪満載のテレビで運よく『おおかみこどもの雨と雪』を観た。
アニメはふだんは敬遠してほとんど観ないのだが
あまりに観る番組が乏しいので、ま、いいかと
チャンネルを合わせたのだが、これが予想外にアタリだった。
細田守監督、今まで知らなくてゴメンナサイ。

この物語の根底に流れているのは、おおかみ男とヒトの間に
生まれたこどもたちの、自分は何者?という自我獲得物語だが
それを静かに見守る母性も色濃く描かれる。
これはたぶんに原作者の理想の反映と思えるが
この強い母性はおおかみ男を伴侶とすることも厭わなかった
積極的で確固とした女性性があってのことだろう。
でも、その後の苦労は子どもを育てながら生活を
したことのある人であれば容易に想像がつく。
アニメはそのあたりはラッキーの連続である。
ま、アニメだし。
一方でおおかみ男である父は早い段階でいなくなる。
彼がなぜ早い段階で亡くなったのかは、あまり語られないが
ここにも原作者の思いが表れているように思う。
つまり男というのは生きた証しさえ残せれば
早々とこの世から消えていくものだ、という諦念である。
男にとっての生きる目的は自分の証しを残すことで
それは瞬間のできごとでしかない。
それがどんな形をとるかは人さまざまということなのだろう。

NHK Eテレの『日本人は何をめざしてきたのか』は
その一端を見せてくれているように思う。
これは久々に見応えのある番組だった。
どんな会長がアホでも、現場はスマート(賢明)でいてほしい。

青森県むつ市の初の原子力船寄港に始まって
六ヶ所村の核燃料再処理施設建設に至る下北半島に
地域振興政策がもたらした結果を淡々と描いて印象に残る。
札束で頬っぺたを引っ叩くような政策に翻弄され
生活の生業の場と引き換えに大金を手にした結果の豪邸も
想定通りにいかない経済の流れで寂れ果てる。
誰もその責任をとってはくれない。
未来を読むことなんてできないから、その日その日を大事に
しながら生きるというのが、この日本という地に住む人が培ってきた
生きる知恵だったはずだが、祭りについ舞い上がってしまう
特性もあって、時としてそういう地道さは忘れられてしまう。
再処理事業を止めるなら、処理済み核燃料の保管受け入れは拒否、
という六ヶ所村の決断は見ているこちらに
「当然だよな」と思わせて痛快である。
恩恵だけを受けて、ゴミ(廃棄物)には感知しないという
自分勝手な態度は強烈なパンチを食らっているのだ。

そもそも日々の生活では必ずゴミが出る。
特別に美味しいものを食べなくても
人は食べ物を口から入れて肛門から毎日屁やウンチ、尿を出している。
ツイッターで微分化しなくたって、毎日細胞は入れ替わり
生と死を絶え間なく再現している。
私たちはそれを意識できていないだけだ。

原発という一夜の夢にも似た生きた証しが欲しかった人たちは
廃棄物というゴミのことを考えることができなかった。
彼らには生活(生きるということ)がどういうものか
分かっていなかったからだ。
そういう彼らから何を得て、どう超えていくのか、
それが残された私たちにとっての課題だ。

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2013年9月12日 (木)

オリンピックがもたらしてくれるもの

2020年オリンピック開催は東京に決まった。
個人的にはイスタンブールに取らせて
世界の富を平準化したかったが、
日本もデフレに苦しんでいるこの際、オリンピックが来ることで
福島の復興が進む可能性に賭けたいという気持ちを許してもらおう。

生涯に2度も生でオリンピックを経験できるという以上に
こどもたちに生オリンピックを経験させてやれることが素直に嬉しい。
64年のオリンピックの時私は中学生だった。
この時代はあとから振り返って「貧しかった日本」とか言われる時代だが、
渦中にいた者としては、特別貧しいとは感じていなかった。
ただ日々の食べ物に困るということはなかったけれど
個人的にはいろいろと過酷なことを経験していた時代で、
それが貧しさによってもたらされたものなのか
人間の本性によるものなのか、今も考え続けてはいる。

そんなこともあり、マラソンのアベベと円谷、
長時間の棒高跳び(ハンセン、ラインハルトという名前はもうすっかり忘却)
東洋の魔女と言われた女子バレーボールなどには大興奮だった。
ひとつひとつの競技に感動して新聞を切り抜いたりもしたが
なんといっても圧巻は閉会式だった。
開会式はお行儀のよい行列以外はほとんど記憶にないが、
(それさえも映像でやっと思い出す程度だが)
閉会式に各国の選手が肩を組み、あるいは手に旗を持って
てんでんばらばらに、楽しそうに嬉しそうに入場してきた光景には、
ほんとに度肝を抜かれてしまった。
瞬間的に、ああこれがオリンピックだと思えた。
国や人種を超えての交歓。これがオリンピックの本来の姿なのだと。

現代風に考えると誰の演出?などと考えてしまいそうだが、
当時はこれはどうやらほんとうに、
係り員が選手たちを制止できなかった結果らしかった。
(NHKのアナウンサーはしきりにそう言っていた)
なんでも言われた通りにしなくてもいいんだ!という感覚も
このとき強烈に意識づけられたように思う。
メダルを取るか否かではなく、大事なのは主体であるという意識なんだと。

情報化が進んだ今では、こんな素朴な話はおとぎ話に聞こえるだろう。
若い世代は私たち世代より国家意識が強く、しかし
同時に国境を超えた世界市民意識も強そうに見える。
9.11後のイラク爆撃が解決になると考えた人は少なかったはずだが
私たちは情報戦に負け、時として世界は不本意に動くものであり、
平和を実現するのも一筋縄ではいかないことを痛感したのだ。
(もちろん、ベトナム以後ずっとそうだが、情報戦を痛感したのはイラクが大きい)
シリアへの爆撃を主張するオバマへの反対が多いのはその成果だ。
政治家は一般市民を危険にさらさない方法を考えるのが仕事であって
大統領のメンツなんかで動いてほしくない、というのが一般人の本音だろう。

7年後のオリンピックは、こうした世界市民意識を国境だけでなく
健常者と障害者の間にも敷衍させる機会であってほしい。
私たちはある意味誰もがハンディキャップパーソンなわけで、
健常者と障害者というように言語化して区別するほどの
差は本来的にはないかもしれないからだ。
ぜひ7年後のオリンピックでそれを実証して見せてほしい。

そう考えるとオリンピックが「東京」へ来たのもまんざらではない気分になる。
自分の差別意識をもっとも意識化できていないのが日本人だとも思えるからだ。


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2013年5月17日 (金)

コントロール

橋下大阪市長の「従軍慰安婦は必要だった」発言。
注目を浴びるためだけにしてはリスクが大きすぎる内容だと思うが
それを超える効果を狙ったと考えるのもあまりに買い被りすぎだと思うので、
とりあえず、思わず本音が漏れてしまったと考えることにする。

今回の事件で、建前を述べ続けることの重要性
(述べ続けるうちにそれが本音になるから)
を指摘したつぶやきもあり、それもなかなか勉強になったが、
本音にこそその人自身が顕れているという事実は変わらない。

この発言は女性蔑視とか人権軽視という観点で語られているが、
男性が性的エネルギー(まあ、これも時代や文化の賜物ではあるが)
にいかに翻弄されているかを述べたものとして見ると
また違ったことが見えてくるようにも思う。
こんな風に性的エネルギーの処理に翻弄されるのだから
戦争はしちゃいけない、という風に橋下さんが結論づけていたら
(というか、ひょっとしてそう言いたい?と思った瞬間もあるが)
ちょっとは擁護してやったかも、と考えないでもない。

そもそも自分の性的エネルギーを他人に頼らずに
自分で処理できない(しようとしない)というところがなんとも情けない。
自分のことは自分でできるようになる、というのは子育ての基本だが
私たちは、どこかで男の育て方を間違ったということだろう。

対照的だったのはアンジェリーナ・ジョリーの決断だ。
http://zukolog.livedoor.biz/archives/28064427.html

自分が親として妻として、そして女優、映画監督
国連難民高等弁務官事務所の親善大使としての役割を全う
するためにはどうするのがベストかを考えて決断したことがうかがえる。
予防医学というのはこういうものか、とちょっと絶句したのは
予防医学について私が無知だからなのかもしれない。
確率についての考え方、遺伝子の発現の仕方など
もっと勉強しなければいけないことはたくさんあるが、
乳がん患者の語りをデータベース化している
ディペックスなどで議論してほしい内容でもある。

橋下さんの話がいかにもけったいな共同幻想に
囚われているらしいことを髣髴とさせて失望を禁じ得ないのに対して、
アンジーの決断は、生きて行くということは
自分をさまざまな関係の中でどう位置づけていくかだ
ということを具体的に見せたという意味で衝撃的である。
幼稚な男と成熟した女というありきたりな図式では見たくないけど。

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2011年10月18日 (火)

不確実な害より確実な害を選ぶ厚労大臣の不思議

ポリオの不活化ワクチン導入で、ちょっとした騒ぎになっている。

そもそもはポリオの生ワクチンで感染者が出たことから
一部の小児科医が個人輸入で不活化ワクチンの接種を
始めたのがきっかけである。
50年前は生ワクチンによってポリオの流行を阻止できたが
その後生ワクチンによるポリオの発症も起きた。
小児科医の多くは毎回「ポリオになりませんように」と
祈るような気持ちで生ワクチンを接種してきたそうである。
にもかかわらず、国はなかなか不活化ワクチンの導入をおこなわなかった。
で、神奈川県が不活化ワクチンの導入に踏み切ったのだ。

以下はNHKニュースのコピーである
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111018/t10013345871000.html
神奈川県 ポリオワクチン輸入へ
10月18日 17時4分

手足がまひするなどの後遺症が出る、ポリオを予防するワクチンについて、
神奈川県は、海外で使われている、安全性の高いとされるワクチンを
独自に輸入し、国に先立って希望者に接種することを決めました。
ポリオのワクチンは、7歳までに2回接種することが法律で定められていますが、
現在、国内では毒性を弱めたウイルスを含む「生(なま)ワクチン」が
使われているため、ごくまれにポリオに感染することがあり、
保護者の間で接種を控える動きが広がっています。
このため厚生労働省は、来年度の末には、毒性を完全になくし、
より安全性が高いとされる「不活化ワクチン」に切り替える計画です。
しかし、神奈川県は、「国の対応は遅すぎる」として、
「不活化ワクチン」を国外から独自に輸入し、国に先立って希望者に
接種することを決めました。18日開かれた市町村への説明会の中で、
県の担当者は、「不活化ワクチン」は県立病院の医師が
個人輸入する形をとり、できるだけ早く、県の保健福祉事務所で
週1回程度、予約した希望者に接種することを伝えました。
その一方で、まだ国内で承認されていないため、
副作用が出ても公的な補償は受けられないことや、
1回当たり5000円から6000円程度を保護者に
負担してもらうことなどを説明しました。
独自に不活化ワクチンの導入を決めたことについて、
黒岩知事は「国がやらないので、緊急避難的に県が不活化ワクチン
という選択肢を設けた」と述べました。
これについて、小宮山厚生労働大臣は、18日の閣議後の記者会見で、
「不活化ワクチンの導入は、生ワクチンの予防接種を控える動きを助長し、
ポリオの免疫を持たない人が増加するおそれがある」と指摘したうえで、
「県が主導して、日本ではまだ承認されていない不活化ワクチンの
接種を進めると、健康被害が生じた際に公的な補償が行われず、
望ましくない」と、神奈川県の対応を批判しました。
厚生労働省は来年度の末には不活化ワクチンを導入する計画で、
それまでは生ワクチンを接種するよう、自治体を通じて呼びかけています。

コピーここまで

不可解なのは厚労大臣のコメントである。
海外で多く使われている不活化ワクチンの健康被害は
今の所報告されていない。
一方で生ワクチンによるポリオの発症は100万人に1.4人である。
この確率は一見非常に小さいように見えるが、
当たった人にとっては100%である。
そのことが分かっているのに、補償がおこなわれないから
不活化を勧めないというのは論理が転倒している。
速やかに不活化の補償を法制化すればいいだけのことである。
それができないなら、
「すみません、お金がないので被害が出ても補償ができません。
でも、健康被害が出ないワクチンを打つことは制限しません。
免疫をつけることを優先したいので、どちらのワクチンを
選択してもいいですから、ワクチンはとにかく打ってください」
と言えばいいのである。

ここでは
健康被害の報告がないのと健康被害が生じているものとでは
(世界の大勢はすでに不活化ワクチンを導入し、被害が出ていない)
健康被害が生じるものを選択する、という論理が採用されている。
何を言っているんだろうか。
自分たちの役割がまるで分かっていないとしか言いようがない。
「放射能つけちゃうぞ」大臣より、よほど質が悪い。

小児科医の中には、
確率が小さい、ポリオの流行を阻止する効率が高い
という理由で生ワクの接種を推進している人も結構いる。
中国でポリオが流行している以上、効率よく免疫をつけるには
生ワクじゃないとダメ、というもっともらしい理由にまじって
法律で補償されなければ自分の身も危うい、という本音も聞こえてくる。
流行が阻止できれば、ひとりやふたりの健康被害は
やむを得ないということらしい。
病気だけ見て人間を見ないと、こういう発想になるのだろう。
個々の人間を大事にできない時代遅れのお医者さんは
速やかに表舞台から退席していただくしかない。

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2011年5月17日 (火)

備えがないって・・

今回の震災で何か得ることがあったとすれば、それは
今まで見えなかったことが、いろいろ見えてきたことだろう。

原子力発電所は安全確保に万全の注意を払っているものと思っていた。
でも実際には、津波であっという間に機能不全に陥るようなシロモノで、
しかもそれに対してほとんどお手上げ状態がいまだに続いている。
いくら地震の静穏期に建てられたものが多いとはいえ、
この地震国でなんで海岸沿いに建てるのかというのも不可解だが
津波で被害を受けるかもしれない、という想定はほとんどされていなかった
というのは、それ以上に驚きだった。
(被害を受けないで済む津波、というのは想定されていたみたいだが)
原発建設は国策としておこなわれており、だから
立地についても、機能についても安全性に関しても、その根拠は
多額の税金を投入してもらうための形だけのデータでしかなかったらしい。

原子力発電がもっともコストが安いという説明も、
どうやら根拠は怪しいらしく、そこには政官財が絡んだ
巨大な利権構造があって、それを維持するためには
できるだけ国民に情報を出さない、というのがお約束みたいである。
もちろんそれには何かにつけてエラそうなメディアも1枚噛んでいる。

昔ミステリから学んだことは、犯人を割り出したければ
利害関係がどうなっているかを把握しろ、ということだった。
それによって誰が得をするか、を突き詰めれば犯人をつきとめられる
というのはミステリの王道だけれど、これは人間社会の本質でもある。

「制御によって安全を確保しようとするのが間違い」
という『危険学』の畑村洋太郎氏の意見や
「あってはならない」と思いたがる日本人の完ぺき主義が
事態が起きた後の対処について考えることを妨げてきた
という浜矩子氏の意見は、いちいちもっともだけど
欲に目がくらむと、自分がどういう人間かも
分からなくなっちゃうということなのだろうか。

だから事後の対処もままならず、
市町村にはすでに400億円の義援金が配られているのに
実際に被災者の手元に渡ったのはまだ9億円強という
ニュースなどを聞くと、生活現場に接しているはずの自治体には
ほんとうに臨機応変という備えがなかったのだなあ
と思わずにいられない。
よくこれで今までが務まっていたものである。

被災地でなくても、それを象徴するようなできごとには事欠かない。

いつも行くA図書館は今回の地震の影響で
建物の危険が増し、しばらく使用中止ということになった。
なので、予約した本は、震災以後はもっぱら
ひと駅隣のB図書館に取りに行っている。
震災前に予約した本が準備できたとネットで連絡が入ったが
受け渡し場所はA図書館になっている。
でも市の図書館HPには、A図書館では受け渡しができないので
他の図書館で受け取るように、と書いてあるのだ。
このところ何回もB図書館に受け取り、返却に行っているし、
ひょっとして気を利かせて、B図書館に回しておいてくれているか、
まあ、そんなことあるはずないよな、と思いながら行ってみる。

もちろんそんな気の利いたことは起きていなかったが
職員の人がA図書館に問い合わせてくれて
A図書館で受け取れることが分かった。
そして曰く
「正面ではなく裏で受け渡ししています。
これ、あんまり公にはしていなんで」

で、A図書館に行ってみたら、正面玄関の所に
「予約本の受け渡しは裏の駐車場でやっています」という立札が。
裏へ回ってみるとテントを立てて机を置き、
男性職員が2名、ぽつねんと座っている。
ひとりが本を取りに行っている間、もうひとりと少しお喋り。
見上げると2階のガラスには結構ヒビが入っており
建物自体も相当老朽化していて、現状では再使用は無理とのこと。
復興を考えてはいるみたいだが、まだ具体的には進んでいないので
とりあえず予約本の受け渡しだけをやっている、という感じだ。

しかしそれにしても、
「建物は使えないが本の受け渡しはやってる」
ということを、どうしてHPでアナウンスしないのだろう。
余計な情報を出すと、いろいろ問い合わせが来て、
対応しきれないと考えているのだろうか。
まさか外で対応しているので、電話がかかっても応対できないから???
行政というのは不思議な職場である。


『3.11もブレなかった東京ディズニーランドの優先順位』
(日経ビジネスオンライン)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110512/219929/?P=1

とくらべると、まったくえらい違いである。


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2011年5月 9日 (月)

母の日に

母の日の前日の土曜日。

私(特に期待するわけでもなく)「明日は母の日だあ」
息子「今年はなんにもありませんから」

もっともこの数年、ずっと何もなかったのだから
今年に限って別に珍しいわけじゃないのである。

そして当日。

レッスンの後、カフェで岡田斗司夫著「評価経済社会」を読み終え
デパートで好物のメカジキの刺身を見つけたので夕食に、
ついでに物産展をうろうろして「堂島ロール」を買う。
ロールケーキが騒がれている風潮は知っていたものの、
特別好物でもないので、今まで手を出したことはなかった。
でも、今日はお母さんの日だしね、
たまには我が家の定番のトップスのチョコレートケーキ
じゃなくてもいいだろうと、新顔に手を出す。
帰宅したら出かけたはずの息子はすでに家に帰っており、
まもなく夫も帰ってきて
「ケーキ買おうかと思ったんだけどさあ」とか言っている。
「いいよ、自分で買ってきたから」と話していたら
息子曰く

「おかあさんにヘッドセットを買ってきました。

最近左耳の聴力が少し落ちているみたいなので
いつもスピーカーフォンにして話をしているのを見て
前から「ヘッドセット使えば?」と言っていたのだ。
そんな大枚はたいちゃって、小遣いが減っちゃうだろ?
という言葉はぐっと飲み込む。

さて、岡田斗司夫さんの「評価経済社会」は
貨幣経済社会の後には評価経済社会が来る、という主張を、
歴史の視点なども絡めて読みやすくまとめている。
「食い扶持は他人からの評価」と聞くと、
なんだか人気商売の推奨みたいで、いかがわしい感じもするが
古代、中世、近代という時代の変化がもたらした
パラダイム(価値観)変化を、農業革命や産業革命などの
生活変化を根拠に解説しているのはなかなか説得力がある。

「モノ不足、時間余り」から「モノ余り、時間不足」の時代を経て
現代は「モノ不足、情報余り」というのが岡田さんの解釈である。
ここでいう現代のモノとは「資源・土地・環境に対する有限感」を指しており、
だから現代の若者はいかに(モノ)資源を使わないか、
いかにモノを作らないか(環境を損なわないか)と考えるので、
これまでの時代に当たり前だった、あくせく働いて金を稼ぐ
というような生活の仕方を嫌うのである。

現代人が「気分」で動いており、
一人十色と言われた、多重人格にも見えるような多面的なありようは
すでに20年以上前から兆しとして捉えられていたが、
情報余り、つまり情報の解釈の多さという補助線を引いて考えると
なんでアイデンティティという言葉が使えなくなってきたのか
ということも含めて腑に落ちる。
で、そこから貨幣経済社会から他者から評価される評価経済社会への移行
という結論が導かれるのだけど、その実践編としての
岡田さんの「オタキングex」は、ユニークだとは思うものの、
なんだか檀家に支えられたお寺さんか、
信者からの献金で成り立っている教会のように見えなくもなく
正直、これのどこが新しいんだ?という感じもする。

まあ、パラダイムが激変しようとしていることだけは確かなのだけど。

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2011年4月13日 (水)

『トゥルー・グリット』

朝、震度4くらいの地震があったのだけど
チケットを買ってしまったので
六本木ヒルズのTOHOシネマへ『トゥルー・グリット』を観に行く。
インターネットでのチケット購入は便利だが、
こういうときに取りやめるっていかないところが難だ。
念のために先日入手した手巻きラジオと携帯の充電用コードも持参する。
地震のせいで地下鉄は変則運転だったが、本編には間に合ってやれやれ。
朝一番のせいか、地震が影響しているのか、
観客はパラパラ程度でさみしいことこの上ないが
選んだ席は目線がスクリーンと同じ高さで快適だった。

もともと西部劇にはあまり興味がないのだけれど、
アカデミー賞で話題になり、マット・デイモンも出ているので
観に行かなきゃと思っていたところへ、先に観た人に絶賛され
背中を押された格好になった。

『ノーカントリー』のコーエン兄弟が監督とはいえ、観終わって
正直なところアカデミー賞にノミネートされるほどの映画か、
という感じがしたのは、レッスン後の筋肉痛と
朝の地震が影響していたのかもしれない。
ジョン・ウエインが主演したオリジナルの
『勇気ある追跡』は未見だが、筋書きは大きくは違っていないらしい。
オリジナルが上映された当時は、こんな若い自立した女の子が
親の仇を討つために酔っ払いを雇うという筋書きに
それなりにインパクトもあっただろうが、
今みたいに肉食系女子が当たり前の時代には、
ストーリー自体にさほど新鮮味があるようには見えない。
だからなんで今、勇気ある追跡なんだ?と思うのだが
想像するに、オリジナルは追跡自体が勇気に満ちている
といいたかったのではないだろうか(観ていないから分からないけど)
一方、本作は「トゥルー・グリット」を「真の勇者」と訳しているように
追跡行動ではなく、追跡する人間に焦点を当てているように見える。
人間という存在はグリット(砂粒)のように小さいが、
そんな小さな存在だからこそ、真に勇気がある者は
賞賛に値する、と言いたいようである。
そしてその最たる者が、14歳の少女、ということは
現代的に見れば案外大きな意味を持っているのかもしれない。

なんていうことを考えながら帰路に着いたら、
終着駅のホームに滑り込む寸前にATSが働き電車が止まった。
窓の外を見ると電線が揺れていて、電車もうねっている。
いやはや無事に帰って来れてよかったと胸をなでおろす。

真の勇者に光を当てるという意味では『グリーン・ゾーン』もそうだった。

桜が満開だった日曜日
夫は近所の花見に、
息子は一人旅の予行演習で印旛沼へキャンプを張りに行き、
私はレッスン後の身体をケアしながらWOWOWで見ていた。
これもマット・デイモン主演という以上の予備知識はなかったのだが
イラクにあるの、ないのと言っていた大量破壊兵器がテーマで
それなりに面白く見てしまった。
大量破壊兵器がなかったことは、今でこそ明らかになっているが
このウソ情報は、実はアメリカ政府高官がリークしたものであり、
それを裏も取らずにメディアが流したのが発端だったらしい。
マット・デイモンは指揮官として、指示に従って現場に乗り込むが、
毎回兵器を見つけることができない。
CIAの協力を得て調査を始め、偽情報のリークだったと分かるのだが
イラクとの接触と、本国アメリカからの抹殺という
両方の危険に迫られながら思いがけない結末を迎える。
CIAというところが、なんとなく胡散臭い感じもするが、
このCIAだって組織は1枚岩ではなく本流と傍流に分断されている。
まあ、政治が絡むとややこしいのはどこも同じである。

デマ情報の大本となった政府高官は、もちろん私益のために流したのであり
政府筋からの情報だからと、メディアが裏も取らずに流すというのは、
どこも似たりよったりで、別に日本のお家芸でもなんでもないと思わされる。
しかしだからといって、メディアや我々がこんな風にいとも簡単に
騙されるというのは、やっぱりかなりやばいんじゃないだろうか。

福島原発の情報だって、今頃レベル7に上がったということは
何らかの情報操作が行われていたということだろう。
危険だ、いや安全だ、という混線状態から浮かび上がってくるのは
東電は、いざというときの対策については何も持たないまま、
原発を建設し続けていた、お粗末な民間企業ということであり、
それを容認していたという意味で、国も同罪である。
それはすべて自民党政権下でおこなわれてきた、という事実を考えれば、
あっちが頼み込んできたって、連立政権なんてお断りと考えるのが
民主党の筋だと思うが、トゥルー・グリットはいないってことなんだろうか。

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2011年4月 4日 (月)

ぬるま湯から飛び出したいカエル

今回の地震は、世界がつながっていることを強く感じさせてくれた。
仮に震源が日本近海であっても、地震そのものは
日本だけで完結しているわけではなく、
まして津波ともなれば、地球の反対側にも大きな影響を与える。

地震と津波の被害が報道されてから入ってきた各国からの
援助や励ましの声は、日本という国がふだんニュースで言われているほど
存在感がないわけでも、世界からバカにされているわけでも
ない(らしい)ことを教えてくれた。
メディアは何かにつけて、経済も政治も二流とか三流と言い続けてきたが
よその国の人たちは、案外そんな風には見ていないのかもしれない。
同時に起こったことの大きさについても、他国によって知らされたという感じがする。
テレビで繰り返し映される津波の映像に呆然としている自分がおり
世界からの働きかけによって我に返っている、というところかもしれない。

さらに原発事故によって、いやでも世界はつながっていることを痛感させられた。
地続きでなくても放射性物質は空中を飛散し、他国にも影響を及ぼす。
アメリカやフランス、ドイツが間髪を置かず援助の手を差し伸べてきたのは
放射能の危険性を最小限にとどめようとする合理性に裏打ちされているからだ。

地震の直後に円が急騰したのが不思議だったが
これは後になって円を買い戻すことを見越した
円買いの影響だったと知って、金融界の嗅覚の鋭さに驚いたものだ。
地震によって受けた経済的な打撃を回復するためには
元気な地域が活発な経済活動をしなければならない、
というのも、ほんとかどうかはともかく、いかにも世界のつながりを感じさせる。
福岡とか大阪などはふだんと全く変わらない元気さらしいが
関東近辺は、いや少なくとも自分は、石原さんなどに言われなくたって、
なかなか出歩く気分にはなれないものだ。
ひとつには、一旦出たら帰ってこれないかも、
という不安が、まだ若干残っているからかもしれない。
もうひとつは、東北の復旧の遅さや
東電の原発に対する対処のしかたを見ていると、
現地で頑張っている人たちの努力はともかくとして、日本全体が、
何かぬるま湯のなかで茹でかかったカエルみたいに見えてしまうからだ。

石原さんの「自粛」要請に腹が立つのは、
それがカエルの発想から一歩も出ていないからだと思う。
彼が考えなければならないのは、どうやったらみんなが元気になれるか
ってことなのに、それを示せないのは彼も半分茹ってしまっているからだろう。

でも未曽有の災害のおかげで、いろいろな機関が、
いろいろと考え始めており、原発に絡んだエネルギー問題の提言も出始めている。
ふだんはなかなかお目にかかれない情報が手軽に入手できるのは
非常時の効用といってもいいかもしれない。

「無計画停電」から「戦略的エネルギーシフト」へ
http://www.isep.or.jp/images/press/ISEP_Strategy110323.pdf
は計画停電を実感した者として面白く読んだ。

「持続可能な社会をどう構想するか」鼎談pdfも面白い。
https://sites.google.com/site/structuralconstructivism/home/download
無料でダウンロードできるサイトの説明には

このたびの東日本大震災からの復興を原理的に考察し、
実質化するために、北大路書房の全面協力のもと、
学際誌『構造構成主義研究』4号特集
「持続可能な社会をどう構想するか」の無料ダウンロードができるようになりました。
昨年公刊された4号の特集では、池田清彦、竹田青嗣、西條剛央が
エネルギー問題、環境問題、経済問題、労働問題について徹底討議し、
東日本大震災後の日本の方向性を考えるうえでヒントになる考え方が提案されています。
今後のよりよい社会のあり方を考えるうえで参考になるようであれば幸いです。
なお、元のファイルはgooglesiteの仕様上大きすぎたため、アップロードに際して分割しております。
お手数をおかけしますがご了承ください。

とある。
太陽光発電じゃなくて太陽熱発電にした方がいい、とか
エネルギー問題と人口問題を同時に解決していく必要があり
そのために、どうやって世界各国が共通の価値認識を醸成していくか、
など興味深い議論が展開されている。
放射性物質は空を越えて飛んでいくが、
地球そのものは閉鎖系社会になりつつあるみたいだ。

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2011年3月28日 (月)

事実にたどりつくバロメーター

被災地ではない地域は少しずつ日常に戻りつつある。
スーパーの棚は少しずつ埋まり始めていて、
慌てなくても物資は十分に供給されていることが実感できる。
一時期は、なかなか手に入らなかった牛乳は
1店1本ずつなら苦労なく購入できるようになった。
お豆腐も、いくらか並び始めた。
一番寒いときにまったく手に入らなかったカイロも
ちょっと暖かくなったら楽に買えるようになった。
我が家のように郊外の畑が点在するような地域には
野菜はいつもどおり、いやいつも以上に豊富にある。
ほうれん草なんかバカ安でかわいそうみたいだ。
でも今日は無洗米はどこの店にもなく、これはきっと
被災地に優先して送られているのだろうと、ふつうのお米を購入。
何でも無ければ無くても済ませられるような生活をすれば
いいだけのことだし、そこでこそ生活者の腕が試されるというものだ。
中越地震の時から新潟県産品を愛用するようになったが
これからは、それに青森とか岩手とか宮城とか福島の物産も加わるのだろう。
ちなみに今日買ったお米は岩手産だ。
ただ、ものが少しずつ高値安定になっていきそうな兆しは懸念する。

地震後の1週間は、さすがに表に出る気になれなくて
バレエのレッスンも2回続けてお休みした。
読書も集中できなくて図書館の本も延滞気味だ。
でも、テレビで地震のニュースを見ながらお菓子をつまむという
もっとも不健康なカウチポテト生活も、さすがに1週間続けると
体が警戒信号を発し始めたので、日曜からレッスン開始。
やっぱり体は動かし続けるに限ると実感する。
少し気分が上向いてきたのを機にお気に入りの古着屋へ足を延ばす。
だんだんわかってきたのは、後で後悔するような買い物は
往々にして自分の精神状態がいまいちのときにしている、ということだが
掘り出し物をうまく見つけられたところを見ると、
肉体だけでなく精神も普通に戻りつつあるみたいだ。
今や買い物は自分を判断するバロメーターなのだ。

今回のいろいろな事象について、ネットを通じて情報交換することが多くなり
既存のメディアには流れない(流れてこなかった)情報も
手に入るようになって、ずいぶん勉強になった。
福島の原発事故では、原発について不勉強だった自分を痛感させられたが、
同時に、既存メディアがいかに肝心なことを伏せてきたかということも見えてきた。
どの人が何と言ったか、どのメディアがどんな情報を流したか、ということは
極力記憶しておき、後々の判断に役立てたいと思うが、
流された情報の内容は、そのメディアが権力とどのように結びついていたか
を表す指標と考えておいた方がいいのだろう。

たとえば地震が起きた当日、菅さんがまっさきに福島の原発を視察した
というニュースを聞いて、何か重大な事象が起きているのかもと予感した。
今(3月28日現在)になってみると、すでに当日の時点で今の状況は
相当程度予想できていたのだろうと思われる。
つまり、あの時点で放射性物質が流れ出るような事故が起きそうなこと
は分かっていたのであり、その収拾方法が、なかなか見つからない、
ということもあらかた見えていたのだろう。
しかし、この視察が対応を遅らせた、と報じるメディアもあったのである。
何か重大事件が起きたとき、現場を見るのは責任者にとっての鉄則だと思うが
そういう鉄則を不要と断じたメディアがあったということは忘れてはいけない。
そういうメディアは、まず信用できないと思ってよいだろう。

「撤退なんかできない!」と菅さんが東電を怒鳴りつけた、というニュースも
あたかもトップにあるまじき振る舞いとでもいうような口調で報じられた。
私は菅さんのいつものスタンドプレーかと思った口だが、
「撤退」という言葉に、ちょっと引っかかった。
東電が撤退できないのは当たり前なのに
なんでわざわざそんなことを言うのだろうと訝しく思った。
そしたら今になって、東電の側が「撤退したい」と申し入れており
それに対して菅さんが怒ったことが分かった。
でも、少なくとも私が購読している2紙は、どちらもそういう事実
つまり東電がそのように申し入れた、ということは報じていなかった。
故意からか、怠慢からか、一部分だけを報じることで、
一国の総理に対する信頼を損ねようとした裏には何があるのだろうか。
とても興味深い。
東電が事態の収拾に責任を取るのは当たり前のことだが
事実を正確に報じないメディアは、どのように責任を取るつもりだろうか。
自分が感じた違和感を突き詰めていくと、案外事実が見えてくる
ということが分かったのも、今回の地震の副産物として挙げておこう。

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2011年3月19日 (土)

学ぶチャンス

今回の東北関東大地震では、地震と津波だけでなく
原子力発電所の事故も重なって
被災地の救援と原発事故への対処という
2つの難題を抱えた状態が続いている。

被災地にいなかった者としてできることは、今回の地震から
いかに多くのことを学ぶかということだろう。
その最たるものは、地震と原子力発電所についてである。

地震については石橋克彦先生がすでに15年以上前に
予見されていらしたことを今回初めて知った。
http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/2011touhoku.html

6年前には衆議院予算委員会の公聴会でも
日本列島が地震の活動期に入っており、それに応じた国土政策と
社会経済システムへと根本的な変革が必要だと述べておられる。
http://historical.seismology.jp/ishibashi/opinion/050223koujyutsu.pdf
このことについては自分が聞き逃したのか、それとも政治家は知っていたけど
一般国民には知らされなかったのかよく分からないが、
ここまでたいした関心を払わないまま来てしまった自分自身に怒りを感じる。

原子力発電所については、平井憲夫さんという人の手記が衝撃的だった。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/index.html

これについては本人が書いたものではない、とか
聞き書きした人が扇動的に書いているという批判もあるようだが
発電所の勤務実態を垣間見ることができる、という意味で価値があると思う。
原子力発電所がどのようなリスクと隣り合わせで運営されてきたか、
その恩恵を享受する側は、「それも仕事」という括りで
実態を見ようとしてこなかったのではないか。
そのようなリスクを負って(負わせて)まで利便性を享受するのか
ということを考えるのには、いいきっかけだろう。

福島原発の事故が最悪の経過をたどったとしても
空気中に飛散する放射性物質の量は、過去に比して
心配するほどではないという説明にも一理はあるだろう。

http://search.kankyo-hoshano.go.jp/food/dekigoto.html#03
http://www.kankyo-hoshano.go.jp/01/0101flash/01010221.html

私の年代は放射性物質が含まれた雨をさんざんかぶってきた世代だが、
とりあえず今のところ無事に過ごせている。
だから、いたずらに慌てる必要はないと思うが、
(というより腹を括ることの方が大事だと思うが)
もちろんそのことは原発の安全性を保証するものではない。
私たちは危険と隣り合わせの生活をしているのに、
その恩恵の大きさに目を眩まされて、危険性の評価については
すこぶる甘くなっているのだと思う。
今回の福島原発事故を、何とかやり過ごせた後の安堵が怖い。

私たち日本人は順応性が高い(単におとなしくて権威に弱いだけかもしれないが)
ために、計画停電だってなんだって、うまく乗り越えてしまう。
それが無批判な原発建設などの実態から目を背けることになっていなかったか、
なんでも政治にお任せで、政治家をきちんと監視しない
という依存性につながっていなかったか
せめてこの大地震を貴重な学習機会にしたい。

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